王懿榮 おう・いえい

絶塞無烽紫氣浮
一時軒盖隗同遊
法星天地看仍裘
子夜招尋醉未休
臘盡忽驚雙鬢改
北來已是六年留
丹心不假殘杯力
笑倚空庭拂蒯緱
戚武莊詩
絶塞(=遠く離れた国境の砦)(のろし)無く 紫氣(=めでたい物事が起こる前兆の雲)浮ぶ
一時軒を盖(おお)い 同遊(=一緒に遊ぶ)を隗(は)じる
天地を星に法り 仍(しばしば)(=毛皮の服)を看る
子夜(=午前零時)に招き尋ずね 酔未だ休まず
(=年功で得られる地位身分)を尽くして忽ち驚き 双鬢(=両方の耳脇の鬢の毛)を改める
北に来て已に是れ六年を留まる
丹心(=真心)は 残杯(=残杯冷泉=冷たい待遇で恥辱を受けることの形容)の力を假ず
笑い倚る空庭(=人気のない淋しい庭) 蒯緱(=粗末な剣)を払う
  戚武莊の詩

道光25年(1845)生〜光緒26年(1900)歿
 政治家・学者。字は正孺、廉生ともいう。山東省福山の出身。1880年(光緒6)に進士に及第し、翰林院庶吉士となり、編修・侍読をへて、国子監祭酒となった。1900年(光緒26)、義和団事件に対して列強の連合軍が北京に侵攻した時、侍郎李端遇とともに団練大臣に任じられ、北京の防御にあたった。
 宮廷をあげ西安に亡命するという状況のなか、彼は義勇軍を率いて連合軍の侵攻を防ごうとしたが、ついに事敗れ、毒を飲み井戸に身を投じて国難に殉じた。
 死後、その功によって侍郎の官を贈られ、文敏と諡された。性格は篤実直摯だったという。
 彼は『書経』や金石訓詁学に優れ、当時一流の学者として名を成したが、とくに1899年(光緒25)に幕客の一人であった劉鶚(りゅうがく、字は鉄雲)とともに、北京市上の薬店で購った骨片から甲骨文を発見し、その収集につとめたことは特筆される。彼の収集した甲骨1,000余片は、死後その大部分が劉鶚の手に移り、最初の甲骨資料集である『鉄雲蔵亀』(1903、光緒29)のなかに収められ、世に紹介された。
 書は行楷を工にし、隷書は礼器碑を法とした。


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