芳野 金陵 よしの きんりょう
   

驚奇喜異者、無遠大之識。
苦節独行者、非恒久之操。
奇に驚き異を喜ぶは、遠大の識なし。
苦節独行は、恒久の操にあらず。
 (菜根譚句)
  目新しく風変わりなことばかりするのは、スケールが小さい証拠だ。
  自分一人だけ浮き上がって苦労しているようでは、決して長続きはしない。
103p×44p

享和2年(1802)生〜明治11(1878)年8月5日歿
制作年  明治6年(1873) 72歳
 金陵は下総国葛飾郡松ヶ崎(柏市松崎)で医業を営む芳野南山(漢詩人でもあった)の第二子として生まれた。名を育圭、諱は世育、字は叔果、通称は立蔵・愿三郎、金陵と号した。
 22歳の時に江戸に出て亀田鵬斎の息子綾瀬に学び、以後20年間、浅草に家塾を開く。弘化4年(1847)に駿河国田中藩主本多公の儒官となる。「旧弊を除き、新政を布く」など藩の活性化に励む。
 文久2年(1862)に幕府に抜擢され、昌平黌の儒官になる。新政府になり、再び昌平黌の教授にななり、安井息軒、塩谷宕陰とともに文久三博士と称された。
 また、ペリー提督率いる艦隊が浦賀に来航し、吉田松蔭らが死罪になる安政の大獄の時、金陵も建議に加わり、海防を論じて幕府の違勅を正そうとしたり、公武合体の議が成って将軍が上洛するに際しては、山陵の修復や皇族の薙髪禁止を建議したりして、憂国の士として尊王の志を明らかにした。
 維新後は明治政府に仕えて昌平学校(東京大学の前身)の教授となったが、明治3年の廃校とともに免官となり、退官後、「帰耕の時、地を大塚に購いて懇田に従事し、傍生徒を教え」77歳で病没している。墓は台東区谷中7丁目の天王寺にある。
 その著に『金陵文抄』2巻、『金陵遺稿』10巻等がある。
 「癸酉長夏金陵老人書」の左に、白文の「芳野世育」、朱文の「字叔果」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://homepage2.nifty.com/kanbun/writers/yoshino-kinryo.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/k-fujikake/sld058.htm
http://bakumatu.727.net/kyou/10/102362%20-horikawa.htm
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/nippori5.htm
http://machinami.fc2web.com/Cemetery/Yanaka/Yoshino-T.html


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