豊田 謙次 とよだ けんじ
   

慷慨堂堂八尺身
讀書明理養天眞
休言措大成何事
三寸毫鋒刺佞人
慷慨(=意気盛ん)堂堂(=立派な様子) 八尺の身
読書 理を明らかにし 天真を養う
言を休め 措大(=貧乏書生) 何事か成らん
三寸の毫鋒 佞人(=口先がうまく、人にへつらい、心のねじけた人)を刺す
104.8p×29p

天保3年(1832)生〜慶応元年12月25日(新暦 1866年2月10日)歿
 儒家。滋賀県甲賀郡水口の人。20歳で家を出て、四国で野沢才次郎象水に源家古法を学ぶなど諸国を遊歴し、安政6年(1859)から文久3年(1863)まで、岡山県美作市土居の行餘学堂で5年間学問を教えた。その後、江戸に入り塚田孔平の門に学んだ。
 文久元(1861)年作州土居の志士安東桂次郎が興した郷校で子弟を教育したが、元治元年(1864) 門人安東鉄馬を伴って入京、宮部鼎蔵らと謀るところがあったが、事破れて6月の池田屋事件、7月の禁門の変などで、宮部ら同志の多くは殺された。この時謙次は近江の水口に在ったので難を免れたが、再び作州に入って同志を募った。禁門の変後は幕吏の追及いよいよ急となった。そこで京都から長州に逃れようと、途中、岡山県和気町佐伯の岡山藩家老土倉家の大目付齋藤氏の勧めで、長州人の薬売りに変装して備前国周匝の旅館橘屋に逗留した。
 この時、土倉家の家臣田原平左衛門と親しくなったが、豊田謙次は、勤王の過激派であったので、松江藩の軍用金を奪って、津山を占領するなど計画していた。田原平左衛門は、土倉家の家臣であり、出来ないと断ると、謙次は、田原を斬ろうとした。田原も応酬し、謙次は斬られた。慶応元年12月15日のことであった。後日、田原平左衛門も切腹した。
 明治24年12月17日、勤王の志士豊田謙次に正5位を叙位された。
 「豊田美稲」の下に、白文の「豊田美稲」、朱文の「有秋氏」の落款印が押されている。

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