荘田 膽斎 そうだ たんさい
   

半山黄葉未飄颻
蘇小墳前晩寂察
一逕苔荒人不到
成秋詞客度湖橋
西湖雜吟
半山の黄葉 未だ飄颻
小墳の前に蘇って 晩寂察す
一逕の苔荒れ 人到らず
成秋詞客 湖橋を度る
西湖雑吟
26.1p×16.6p

文化12年(1815)生〜明治9年(1876)歿
 会津藩士。巻菱湖門下。
『呆訳・志ぐれ草紙』一九、莊田膽齋の書 (小川渉著 S10)に
「名は坦 通称は長之助といふ、巻菱湖の門に入りて書を學び、青年の時は柯亭と共に星研堂の門人にて、長じて後も互いに競爭しをりしが、柯亭常に膽齋にいふやう、子は天資書材に富みしかば他人も子が書を評して能書といはん、予が書固より見るに足らねど、骨を折り困みし書なりと謂はるれば可なりといひ居りしと聞きしが、予よりこれを看れば雲泥の違ひなるなり、膽齋は卑屈なる男にて師門に在りて師書を眞似せしが、發見して遂に破門せられしが一生師風を書しをり、その日新館中書學寮に出勤を命ぜられ研堂の下にあり、手本を書するには研堂風を書して運筆は自在と謂て可なるべし、最も長ぜしは細楷なり、半紙四截に千字文を書するなど得意のことなりきと自ら謂ふ、四書輯疏の刻字を書して後楷書は數等を下りしと或は然らん、然るにいか様なるものにても脱字誤字は決してなさゞりしは自負する所にて、當時君公諸藝術を見給ふには、諸生の名簿に父兄の肩書せるものをその日差上げき、ごれを御前帳と稱へその料紙は大判の杉原紙にして、厘毫の脱誤ありては大不敬に當るを以て愼み校正したるものなりしが、膽齋はこれ等と雖も人と談話しながら書して脱誤ぜず、自ら校正を勞するに及ばずと證明せり、また~社の旌、市店の招牌の如きに至つては字を配賦するの勞を煩はさず、督見筆を下して位地を占めしは他人の及ばざる所なり、日新館裏書學寮の師範補勤となり、研堂の下に在りて扶翼するの役となりしかば、研堂の門人に手本を書するには研堂風を書し、私弟には本色の菱潮風を書し、研堂のみならず子昴にまれ其昌にまれ、自在に模倣せしはまた他人の及ばざる處なりき、私に聞く師門に在るや師筆を模して呵責を受けしことありと、その識見はなき人なりき。」
とある。


参考文献一覧      HOME