白井 重固 しらい じゅうこ
   

夜坐不厭湖上月
晝行不厭湖上山
眼前一尊又長滿
心中萬事如等閑
主人有黍百餘石
濁醪數鬥應不惜
即今相對不盡歡
別後相思復何益
茱萸灣頭歸路賖
願君且宿黄公家
風光若此人不醉
參差辜負東園花
夜坐して厭わず 湖上の月
昼行いて厭わず 湖上の山
眼前一尊 又た長に満ち
心中万事 等閑の如し
主人黍有り 百余石
濁醪數斗 応に惜しまざるべし
即今相対して 歓を尽くさずんば
別後相思うとも 復た何か益あらん
茱萸湾頭 帰路賖(はるか)なり
願わくは君且く宿せよ 黄公の家
風光此の若きに 人酔わずんば
参差として 東園の花に辜負せん      (張謂「湖上對酒作」)
40p×123p

明和8年(1771)生〜天保4年5月4日(1833)歿
 名は惣六・惣六郎・重固・固、字は季執、号を楓園・采真堂・蔵六庵などと称した。庄内藩士白井久右衛門茂貞の二男で、兄は白井矢太夫。
 寛政元年(1789)、宗家白井吉兵衛(重富)の養子となり、番頭450石の家督を継いだ。若い頃から学才に富み漢学に通じたが、伊勢の足代弘訓に師事して和歌に優れ、池田玄斎と交友し、仮名文学を得意とした。
 寛政12年(1800)、学校御用向を命ぜられ致道館の建設に参画し、享和3年(1803) 預地主役となり、文化2年(1805) 致道館が開校されるや学監兼司業となり、祭洒白井矢太夫を補佐するとともに同4年には郡代となったが、同8年白井矢太夫の退役とともに職を免ぜられた。
 この頃、致道館の教師間に放逸派と恭敬派の二派があって対立していた。重固は放逸派の重鎮であった。重固は文化14年(1817) 奏者番となり、翌年寺社奉行を兼ねた。
 著書に『可久藻草』『藻塩草』『百人一首略解』『野中の清水』『国府論』『出羽国神社考』『鏡の塵』がある。(参考文献:『三百藩家臣人名事典』)
 落款が無く、白文の「源固之印」、朱文の「季執」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/01_soutai/03-2_si/09-1_ra/syonai_sirai/sirai_juuko.html
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-604.html


参考文献一覧      HOME