鈴木 重胤 すずき しげたね
   

乾坤のは
くみの露
を乳ふさ
にて我な
てしこは
おりしさ
けり
乾坤の はぐみの露を 乳(ち)ぶさにて
(わが)なでしこは おりし さけり
    床夏
55.5p×29.3p

文化9年5月5日(新暦 1812年6月13日)生〜文久3年8月15日(新暦 1863年9月27日)歿
 幕末の国学者・志士。淡路国津名郡仁井村の庄屋鈴木重威の子。姓は穂積、幼名は雄三郎、通称は勝左衛門、橿廼家・厳橿本・府生・柱州と号し、諱は重胤。淡路国津名郡仁井村(兵庫県津名郡北淡町)の庄屋・穂積重威・麗子の5男。
 文政8年(1825)ころ、大坂鴻池家に商業見習いに住み、父の遺訓で国学を志望し、大坂・神戸で奉公のかたわら学問に励しだ。
 天保3年(1832) 江戸在住の平田篤胤に書信で教えを受けるが、面会できないうちに篤胤は亡くなる。天保5年(1834)ころ大国隆正に入門。天保10年(1839) 大坂で和歌を教授。1844年以降江戸に居を構え、越後や出羽などにおもむき平田学の継承に努めた。
 出羽国大山の旧家大滝光憲、越後新津の旧家桂誉重の支持を受け、大滝よりは資を得て江戸生活を支えられ、嘉永・安政にかけて『延喜式祝詞講義』『日本書紀伝』の著述に努めたが、安政4年(1857)篤胤の養子銕胤らと不和が生じ、安政5年(1858)には破門された。その上、平田銕胤の尊攘激派路線とも対立し、ついに平田門人の手で文久3年(1863)、廃帝故事調査をし、幕府の奸吏と通じたとされ、畢生の大著『日本書紀伝』未完成のまま、本所小梅の自宅で暗殺された。

推奨サイト
http://fine-vn.com/cat_28/ent_51.html
http://www.tabiken.com/history/doc/J/J314R100.HTM
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http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/aw/00042051aw200610051000.shtml
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-635.html
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