唐崎 常陸介 からさき ひたちのすけ
   

   垂加翁直受神道
   奥秘口訣悉面授
   之吉田重粛畢吝
   行進者守翁之遺
   戒丁寧可被令訓
   道者也
垂加翁(=山崎 闇斎)は直ちに神道の
奥秘(=奥義)を受けた 口訣(=秘伝)(ことごとく)授けるを面(そむ)
之れ吉 田を重粛し 畢(ことごと)く吝(おし)むべし
後進者は翁の遺戒を守り
丁寧に被むるべし
令を訓(=教える)は道者(=道士)
30.8p×40.3p

元文2年(1737)生〜寛政8年11月18日(新暦1796年12月16日)歿
 江戸時代中期の神官・国学者、尊攘運動家。初名信徳、のち土愛、字は百道・宝愛、瓊山・赤斎と号した。家は代々、安芸国竹原(広島県)礒宮八幡宮の祠官で、家職を継ぐ。宝暦元年(1751) 15歳のとき伊勢に遊学して谷川士清に国学を学び、宝暦7年(1757)帰国して子弟を教授した。
 皇室の衰えを憂い勤皇の説を唱え、しばしば上京して志士と交わった。宝暦事件(京都で公家に尊王論を説いて、宝暦8年(1758)幕府に処罰された竹内式部の事件)に関係していたということで代官所から閉門を命ぜられ、8月22日藩外へ出ることを禁止された。この国止めは1792年(寛政4)まで31年の長きに及んだ。
 しかし、そうした圧力にもめげず、聖護院法親王の邸で高山彦九郎と出会い、意気投合し、禁をおかして、彦九郎とともに尊王論者として、江戸・京都や九州の同志の間を往復し、遊説してまわった。頼山陽の祖父 惟清とも親交があった。安永2年(1773) 従五位 常陸介に任ぜられた。
 寛政5年(1793)年、彦九郎が自刃すると、その遺志を継いで、柄崎八百道と変名して同志の糾合に尽力した。しかし志の成りがたきを憤って、竹原庚申堂で切腹して果てた。死に先だち日常の記録や書簡類を焼却したという。
 書は豪放、詩文、和歌ともに巧み。道工彦文の和歌集『彦文家集』を編纂している。

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山崎 闇斎(やまざき あんさい)
 元和4年12月9日(1619年1月24日)生〜天和2年9月16日(1682年10月16日)歿
 江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。諱は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は号。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。
朱子学の一派である崎門学(きもんがく)の創始者として、また、神道の教説である垂加神道の創始者としても知られる。


垂加神道
 天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした。また、人間の「敬」を最も大切な徳分とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えた。この「敬」の実践行為とは「正直」であるとした。


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