諌山 菽村 いさやま しゅくそん
   

雲鎖寒山雪滿江
已看僊子南天降
君移痩影黄昏月
我抱幽情寂寞窓
夢斷書童傳朗々
日長空谷送蛩々
試將兩保對他此
妙趣猶思不可雙
雲鎖の寒山 雪 江に満つ
已に看る 仙子 南天に降りるを
君 痩影と移る 黄昏の月
我 幽情を抱く 寂寞の窓
夢を斷ちて 書童 朗々と伝え
日長り空谷 蛩々(=びくびくする)して送る
試みる將さに両(ふたつながら)保つ 他と此を対す
妙趣 猶 思う 双は不可なり
128.2p×33.9p

文政8年(1825)3月生〜明治26年(1893)1月25日歿
制作年 明治14年(1881)秋 57歳
 通称は與吉、後に東作、字は平甫、菽村・燈園と号した。日田市豆田の医師諌山安民の長男。本姓が菅原で太宰府天満宮の神職であったが、羽野天満宮(現日田市天神町)にゆかりがあり、日田に移り住んだ。
 菽村は淡窓門下の第一期生で、後に福岡亀井塾に学び、秋月・大坂での医学の修行を経て、36歳の時、日田市豆田で医師を開業、日田代官所の典医となり、帯刀を許された。
 菽村は捨て子があれば、連れてきて、自費で養育していたが、個人では限界があり、明治2年(1869)日田県知事松方正義を説き数百両の基金を拠出させ、又、草野忠右衛門・広瀬源兵衛等を説いて、2000両の基金を集め、豆田三本松に「養育館」を新築し、捨て子・孤児・貧乏家庭の子まで収容して、養育にあたった。また同時に堕胎等の風習の根絶をはかった。しかし、松方の転地、大分県への編入で、明治6年に経済的に困窮し閉鎖した。この間360数名を養育した。菽村は「学問の第一義は、学んでこれを行うにあり」として、淡窓の『万善簿』にならって『修身録』をつくり、実行した。
 明治11年月隈山麓の代官所跡に「三隈義校」を越し、森藩士の宮本氏を教授にした。後に下毛郡中摩の医師村上姑南に継承させたが、財政難で、日田郡組合立数英中学に子弟を吸収された。姑南は田島宮太夫の竜馬の森の寓居に私塾「学思館」を開いた。菽村の咸宜園再興に対する情熱は深く、和漢書籍の保存や、塾の財政資金の確保の為に働き、努力した。そして明治21年11月から25年4月まで開塾したが健康を害して、やむなく閉じた。後、明治29年5月から1年間、勝屋明浜によって開塾、閉じた後、咸宜園は廃絶となった。
 菽村は一方で詩や画をたしなみ、特に梅の画を好んだ。(http://www.hita.ne.jp/~city/his/manfrm.htmより抜粋)
 「菽村生」の下に、朱文の「菽村」、白文の「諌山?印」の落款印が押されている。


推奨サイト
http://www.hita.ne.jp/~city/his/manfrm.htm
http://www.oab.co.jp/i/bangumi/kenbun/0114_06.html
http://www.pref.oita.jp/10400/viento/vol10/senjin/senjin.htm
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-09-18/2006091803_01_0.html


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