高崎 五六 たかさき ごろく(いつむ)
   

君子以虚受人
君子は虚をもって人を受く
『易経』咸象の句 → 君子は虚心坦懐に人の言葉や行動を受け止める
131.3p×33.5p

天保7年2月19日(新暦 1836年4月4日)生〜明治29年(新暦 1896年5月6日)歿
 江戸時代末期の薩摩藩士、明治時代の官僚。男爵。通称を猪太郎または兵部と名乗り、のち諱を友愛。天保7年(1836)、薩摩藩士の高崎善兵衛の長男として鹿児島に生まれる。安政末期、水戸藩有志とともに井伊直弼襲撃を策謀し、関鉄之助とともに入京。朝廷に奏聞しようとしたが失敗する。
 文久2年(1862)、藩命により上京。藩士有馬新七らが島津久光の命に背いて伏見寺田屋に集会するのを察知し、久光に急告して騒擾を事前に食い止めた。
 元治元年(1864)、長州征伐が起こり、西郷隆盛と協議のうえ朝稲兵助と変名して長州に入り、藩要人と議論を交わし、さらには長州藩謝罪恭順のために周旋した。
 維新後は地方官に任じ、明治4年置賜県参事、5年中議官教部御用掛、8年(1875) から17年(1884)まで岡山県令勤めた。高崎五六は三島通庸、関新平と並ぶ「三大圧政家」として悪名高い。当時、彼を恨んだ人は多い。なにしろ、赴任直後に「県庁職員の全員クビ切り」を断行。明治15年には言論弾圧(山陽新報に51日間の発行停止命令)をして、政府の方針を強行している。生死一如の道を歩んで来ただけに胆がすわっている。<鬼県令><鉄腕県令>と言われ畏れられた。しかし、岡山県の草創期から発展期に向かう軌道を敷いた功績は、実に大きい。国道180号線沿い、新見近くの「絹掛の滝」に、県令高崎五六自筆の歌碑がある。
 その後、17年参事院議官、18年元老院議官、19年(1886)東京府知事を歴任。明治20年、勲功により男爵位を授けられた。
 「五六書」の下に、白文の「元是?城一書生」、朱文の「高崎五六之印」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E4%BA%94%E5%85%AD
http://www006.upp.so-net.ne.jp/e_meijiishin/jinbutsu/takasakigoroku/takasakigoroku.htm
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http://kusamadai.com/l/roman/roman_04.htm
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