藤森 弘庵 ふじもり こうあん
   

菜花成莢春将老
錦翼孤飛弄午喧
豈是瑶階無玉粒
懶従鸚母学能言
菜花 莢(さや)を成して 春 将に老いたり
錦翼 孤に飛琵 午喧を弄ぶ
豈に是れ瑶階(玉の階段) 玉粒無し
鸚母(=オウム)に従うのを懶(おこた)り 能言を学ぶ
138.5p×32p

寛政11年(1799)生〜文久2年(1862)10月歿  
 名は大雅、字は淳風、通称は恭助と称す。弘庵はその号で、天山とも号した。父は義正小野侯に仕え、母は堀越氏の娘で、信濃国諏訪廟視某に生まれる。
 幼くして学を好み、志を貫いて一心に励み、下位にあっても天下の憂を忘れず、弱冠にして父の後を承け祐筆となった。世子侍読を兼ね、世子嗣立した。
 弘庵は事を論じて権威に逆らい、職を辞した。始め柴野碧海・長野豊山・古賀穀堂・古賀?庵等に従って学んだ。最も詩を善くし、また書も巧みだった。訓詁にとらわれず、常に気骨のある文章で自らを評して、「士不幸にして当世に志を得ざれば即ち宜しく言を立てて不朽に伝う可し。夫の一身存滅の如きは世の軽重する所取るに足らざるなり」と。
 土浦侯土屋相模守は彼を賓師として迎え、学政・郡務を兼ねさせ、郁文館教授として文教を興して吏弊を改めた。しかし、反対に遭い、弘化の始め(1844頃)江戸に居を移し、門人が益々増加した。
 嘉永6年(1853)黒船来航にあたり、幕府の対応に憤激して、『海防備論』二巻を著わした。そして水戸烈公を奉じて時務を建白し、『芻言』六巻を上した。烈公は嘉奨し、大藩も禄を厚くして招く者もあったが、「吾れ二君に仕える欲せず」と固辞して断った。
 井伊大老は安政の大獄で、弘庵は人心を鼓動するとして重刑をもって処すとしたが、実際は田野に隠居させた。四方の士は争ってその門に赴いたという。
 「天山真逸」の下に、白文の「藤森大雅」の落款印、朱文の「涼渠修林」の印が押されている。

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