大沼 枕山 おうぬま ちんざん
   

寄跡青巒薜茘房
出門午頃白雲涼
欲炊菰飯斫鱸鱠
又短漁船過鷺郷
青巒(=青々とした山)に寄跡(=身を寄せる) 薜茘(=薬用植物)の房
門を出は午頃 白雲涼し
炊と欲す菰飯(=マコモの実の飯) 鱸(すずき)(なます)を斫(き)
又た短かい漁船 鷺郷を過ぎる
125.5p×32.8p

文化15年3月19日(新暦 1818年4月24日)生〜明治24(1891)年10月1日歿
 江戸時代末明治初期の漢詩人。名は厚、字は子寿、通称捨吉。尾張瀋の儒臣大沼竹渓の子として江戸下谷三枚橋付近(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)に生まれた。
 父が死んだとき、枕山はわずか10歳であったため、尾張(今の愛知県)に一時身を寄せたが、天保6年(1835)江戸に戻り、当時の江戸漢詩の大家梁川星巌に出会い、玉池吟社に参加し、その才能が開花した。そのころ江戸の漢詩壇では、星巌とおなじ系統に属する大窪詩仏、菊池五山らがさかんに宋詩の清新な様式を鼓吹していたが、枕山はその一派の主張に共鳴し、菊池五山にも学び、宋の范石湖や楊誠斎の詩風を学んだ作品を発表して、世人の視聴をあつめた。そのもっとも得意としたのは詠物と詠史の作で、はやく江戸末期に『枕山詩鈔』のほか『枕山詠物詩』を刊行している。
 弘化2年(1845)星巌が江戸を離れたあと江戸詩壇を背負ったのは、ほかならぬ枕山が下谷三枚橋に開いた「下谷吟社」であり、明治維新後も、なお下谷吟社は当時の詩壇の中心的な存在で、小野湖山、森春涛と並んで、漢詩壇の第一人者となった。しかし明治以後は、政府の新政を喜ばず、市井の間に隠れ、風刺や不平を鳴らした詩をつくった。その主幸した下谷吟社からは多くの才俊を出したが、それらの人の作品は『下谷吟社詩』にあつめられている。明治24年10月、74歳で没した。弟子に嵩古香らがいる。
 また、のちに永井荷風『下谷叢話』で著名になった。
 「枕山」の下に、白文の「大沼厚印」、朱文の「一字枕山」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://fine-vn.com/cat_12/ent_80.html
http://www.taitocity.net/culture/bunkazai/h4/oonuma.htm
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-884.html


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