岡本 監輔 おかもと かんすけ
   

138.4p×31p

天保10年10月17日(1839年11月22日)生〜明治37年11月9日歿
 幕末-明治時代の探検家、官吏。阿波(徳島県) 穴吹町三谷の医薬家に生まれる。通称は文平、号は韋庵。
 地元でサガレン(樺太)という島があることを知り、興味をもって江戸に出た。 彼は江戸において、『北蝦夷図説』を読み、日本の版図である北方が、ロシア人により侵略されていることを知り、北方開拓に人生をささげる決意をした。文久3年(1863)以来慶応元年(1865)年に丸木舟によって間宮海峡を通り樺太と蝦夷地を踏査、樺太北部の状況をはじめて明らかにした。
 明治元年(1868)2月、侍従清水谷公考らを説き、蝦夷地経営の急務を説く建議を朝廷に提出させた。4月、箱館裁判所の内国事務局権判事となり箱館に在勤する。同年閏4月、箱館府権判事となり樺太全島の事務を委任される。移民を連れクシュンコタンに至る。同年、函館裁判判事となり、樺太経営を担当する。明治2年には開拓判官となるが、政府の消極的な樺太政策に不満を持ち、明治 明治3年(1870)、樺太放棄論を広めた黒田清隆と意見が合わず 辞任、東京第一中学にて教壇にたつ。明治4年(1871)、『北門急務』を著し、樺太が古来より日本領で あったことを記す。
 明治24年(1891)には、千島列島のエトロフ島を訪れた。樺太と交換した千島がほったらかしであることを知り、千島開拓を企てて千島義会を結成。全島の探検を目指すが、船が沈没してエトロフ止まりだった。明治25年(1892)、千島義会を設立、択捉島などを探検し『千島見聞録』などを著し、 北方についての知識を国民に広めた。
 明治37年(1904)、ポーツマス条約にて樺太の南半分を得たことを知ることもなくこの世を去る。
 著書に『北蝦夷新誌』、『窮北日記』、『烟台日記』、『万国史記』『岡本氏自伝』など多数ある。
 「韋庵」の下に、朱文の「岡監」、白文の「韋庵」の落款印が押されている。

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