石川 鴻斎 いしかわ こうさい
   

梵聲僅罷闘聲譁
霧裏忽看翻大牙
一劍降魔衝敵陣
腥風吹捲両袈裟
不識庵撃機山圖
梵声 僅(わず)かに罷(や)み 闘声譁(かまびす=わあわあと騒が)しい
霧裏 忽(たちま)ち看る 大牙(=大将の陣屋にたてる旗じるし) 翻えるを
一劍 降魔(=悪魔を降参させる) 敵陣を衝く
腥風(=殺伐な気配) 両袈裟(=上杉謙信と武田信玄)に吹き捲くる
不識庵機山を撃つの図に題す(不識庵は越後の上杉謙信、機山は武田信玄、ともにその法号。)
降魔剣=不動明王が手に持っている、悪魔を打ち負かすという剣
両雄の川中島での戦いは1553年の第一回から、最後は1561年の5回に及んでいる。
同じ題名の詩に頼山陽の「鞭聲粛粛夜過河 暁見千兵擁大牙 遺恨十年磨一劍 流星光底逸長蛇 鞭聲粛々夜河を過る 暁に見る千兵の大牙を擁するを 遺恨十年一剣を磨き 流星光底長蛇を逸す」がある。
137p×34p

天保4年(1833)4月1日生〜大正7年(1918)9月13日歿
 三河国豊橋の商家大野屋石川平五郎の庶子として生まれた。名を景英、後に英と改め、初号を嵩雲といった。また、号は後に多く鴻斎を用い、他に芝山・石英・樵者・君華・雪泥などとも号した。別号に芝山外史・雪泥居士。
 幼少の頃から才知英発で文学を好み読書に没頭し、漢学を吉田の西岡翠園・太田晴軒・岡崎の曽我耐軒らに師事して漢学を学ぶ。その後、自家隣の浄円寺に了願(文政年間示寂)以来の経蔵があって蔵書が豊富であったから、その閲覧を乞い、毎日所蔵の漢籍を読破し、ついには仏書にまで及んだという。鴻斎の学殖はこうして養われ、専門の漢学・詩文のほか和歌・俳句・茶道・南画もよくした。
 明治維新後、一時神奈川県傭史となり、明治10年(1877)1月から東京に移った。東京では三河出身の和泉屋市兵衛の経営する書店に勤め編集の仕事に携わった。次いで和泉屋の世話で、芝増上寺の旧学寮が改めて浄土宗学校として開校したときに、漢学の教師となった。同年、清国より来朝した全権公使と副使、その外随員8名が宿所として増上寺に滞在した。この時、鴻斎は筆談をもって会談に加わり、のち贈答した詩文中より数十篇を選んで一冊とし、翌11年8月、東京文昇堂より『芝山一笑』として刊行した。これにより大いにその博識が賞せられ「漢学者鴻斎」の名は中央に高まり、その名は全国的に知られるようになった。また、数多くの著作を手掛けたり、小野湖山・前田黙鳳・依田学海・富岡鉄斎など当代一流の文人等と親交を結ぶなど、鴻斎の一番華やかな最も充実した時期であった。
 鴻斎の画風はまぎれもない南画であるが、具体的に誰に師事したのかは明らかでない。ただ、その遺作中に数多くの山水画は遠江の平井顕斎や福田半香に相通ずるものがある。顕斎は、谷文晁の画風を基調に渡辺崋山の様式を加味した作風を、山水画を中心に展開した崋山の高弟である。また、鴻斎自身も深く崋山を崇拝していたようで、その遺作中に崋山の模成画が数多く見られる。いずれにしろ、交際は自ら学者に徹し、画業はおのずから余技で、詩文を本領とし、その絵も謹直で克明な画風をもっていた。
 明治28年(1895)頃より静岡県見付(現磐田市)に閑居し、尾張・三河・遠江を活動領域として東西の文人墨客らと往来した。この時代に多くの詩文書画・平井顕斎碑・福田半香碑などの碑文を手がけ、子供の名づけ親にもなるなど悠々と晩年を送った。
 主な作品に「春景山水図」(明治29年)、「山水十二景図」(明治34年)、「蘭亭曲水図」(大正4年)、「牡丹図」(大正6年)「竹図」(大正7年)など、主な著作に『夜窓鬼談』(1889、東陽堂)などがある。
 「鴻齋居士英」の下に、白文回文の「石英字君華」、朱文の「」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.asa1.net/siseki-meguri/himekaidou/h17-isikawa.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%B4%BB%E6%96%8E
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%B4%BB%E6%96%8E-15219
http://www.weblio.jp/content/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%B4%BB%E6%96%8E


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