鷲津 毅堂 わしづ きどう
   

湾頭撑入落潮初
一半分丹?老漁
累々順流収手緩
花紅揜瑛水精魚
湾頭(=湾のほとり)(=舟を進め)入り 落潮(=引き潮)初まる
一半(=半分)に丹(=赤)を分け 老漁貞(ただ)しい
累々(=あたり一面に連なって続く)たり順流(=自然な水流) 手を緩めて収める
花紅(くれない)に揜(おお)い暎(うつ)す 水精(=水の精)の魚
56.5p×137.8p

文政8年11月8日(1825年12月17日)生〜明治15年(1882年)10月5日歿
 尾張国丹羽郡丹羽村(現在の愛知県一宮市丹羽)で生まれた。名は文郁、字は重光、通称郁太郎・貞助・九蔵、号は毅堂・蘇州・泉橋外史。曾祖父は医師で文人、学舎有隣舎の基礎をつくった幽林。父は幽林の孫の益斎(通称徳太郎) で、大沼枕山や森春濤の師でもあった。2女の恒は門人永井匡温(久一郎)と結婚、のち永井荷風を生む。毅堂の生涯は、荷風の著書『下谷叢話』に詳しく述べられている。童謡歌手の小鳩くるみは毅堂の弟・蓉裳の曾孫にあたる。
 幼児より父益斎の教えを受け、父の死後、伊勢安濃津の猪飼敬所に師事した。
 弘化2年(1845)江戸に出て昌平黌に学んだ。嘉永3年(1851)清の武備の不備を説いた魏源の『聖武記』の抄録『聖武記採要』を刊行した。それが幕府の忌諱に触れて尾張藩籍を失い、一時房総半島に退避している。
 嘉永5年(1852)結城藩校の教授となったが、6月には辞任。嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来ると、『告詰篇』を水戸藩の徳川斉昭に献呈した。この年、宣光は、上総国久留里藩に招かれ10人扶持を得た。
 安政元年(1854)居を下谷御徒町に定め、そこで塾を開いていたが、11月 尾張藩の招きに応じて、明倫堂教授になるため一家で尾張名古屋に移住した。
 慶応2年(1866)20人扶持から150俵と増給になり、当時7歳の藩主徳川義宜の読書相手および侍講となった。慶応3年(1867)明倫堂教授から督学に昇進し、村々を巡回し村民に講義を聴かせ、校内に他藩の学生の寄宿を許し、武術を盛んにするなどの改革を行った。この年、徳川慶勝に従って京都に赴き、幕府と薩長諸藩との間をとりもっている。
 慶応4年(1868)明治新政府の徴士となり、明倫堂督学を辞任した。その後、太政官権弁事、大学校少丞を経て、陸前国登米県(宮城県の一部)の権知事となり、明治3年(1870)登米県と石巻県の合併にともない、県知事の任を解かれ、明治4年(1871)以降明治15年(1882)まで司法省に出仕した。
 晩年、儒者とグループを組んで毎月詩筵を開いた。その仲間に三島中洲、川田甕江、重野成斎、中村敬宇らがいた。明治14年(1881)学士会の会員になったが、胃癌のため翌15年(1882)58歳で死去した。
 著書に『親燈余影』『毅堂丙集』『薄遊吟草』がある。
 「毅堂学人」の下に、陰刻「鷲津宣印」と陽刻「重光氏」の落款が押されている。

推奨サイト
http://black.ap.teacup.com/syumoku/95.html
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-766.html
http://soutairoku.com/01_soutai/10-1_wa/03-2_si/wasidu_kidou/wasidu_kidou.html
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi06/chi06_03890_0060_0003/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E6%B4%A5%E6%AF%85%E5%A0%82
http://kotobank.jp/word/%E9%B7%B2%E6%B4%A5%E6%AF%85%E5%A0%82
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/owari/owa119.htm
http://www.maroon.dti.ne.jp/~satton/meisyo/wasizu.html
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sen11.htm


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