徳富 一敬 とくとみ かずたか
   

恭賦奉呈 松坡田邊先生
家在湘南適有隣
吟哦諷詠脱紅塵
薫陶囘首十三載
米壽今春領瓦全
恭賦奉呈(=漢詩を作り謹んで献上する) 松坡田邊先生
家は湘南ありて 有隣(=自分の周辺に同類のものが集まって来る)に適す
吟哦諷詠(=詩歌を節を付け声を出して歌う) 紅塵(=世間の煩わしさ)を脱す
薫陶(=徳の力で人を感化し教育する)(こうべ)を廻らす十三載(=年)
米寿(=私)の今春 瓦全(=何もしないで生きながらえていること)を領(う=承知する)
137p×30p

文政5年9月24日(1822年11月7日)生〜大正3年(1914)5月26日歿
 肥後国葦北郡水俣郷(後の熊本県水俣市)の出身。幼時は万熊、後には太多助、太多七などと称し、淇水と号した。一敬を「いっけい」と読む場合もある。一敬の父は辛島塩井の高弟で津奈木手永惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。
 一敬は天保8年(1837)から、近藤英助の私塾で教えを受けつつ藩校時習館に学ぶが、天保13年(1842)に父の死去により惣庄屋の務めのため帰郷。弘化2年(1845)に横井小楠の門下となった。一敬は、小楠の第一の門弟とされる。
 嘉永元年(1848)には、矢嶋直明の四女である矢嶋久子と結婚した。安政元年(1854)に帰郷し、翌年に葦北郡宰属監察に推挙され、民政に尽力した。元治元年(1864)に勝海舟の遣いで坂本龍馬が横井小楠を訪ねた時には一敬も同席し、その様子を書き留めている。
 一敬は、維新後の明治3年(1870)には熊本藩庁で奉行所書記兼録事となって熊本へ移り、同年中に竹崎律次郎とともに民政大属となって藩政改革に当たった。廃藩置県を経て、明治4年(1871)に熊本県典事、翌年に白川県七等出仕となった後、病を理由に明治6年(1873)に官職を辞した。明治12年(1879)に改進党系の立場から県会議員に当選したが、翌年(1880)には病のために県会議員を辞職し、熊本に実学党の教育機関である私立中学校共立学舎の設立に参加して漢学部で教鞭を執った。
 長男の徳富蘇峰が明治15年(1882)に自宅で開いた大江義塾でも漢学を教えた。また、この頃、自宅の敷地内に絹織工場を設けて経営を試みた。明治19年(1886)、蘇峰らとともに東京へ移り、その後は勝海舟らとも交流をもった。謹厳実直な人柄は勝海舟に愛された。
 明治39年(1906)には、弓町本郷教会で海老名弾正牧師により洗礼を受け、既に蘇峰や盧花はじめ多くがキリスト教徒となっていた徳富家の中では最後にキリスト教に入信した。しかし、朱子学者としての姿勢は、その後も貫かれた。
 長男は蘇峰(猪一郎)であり、次男の友喜は幼くして天祈。三男は蘆花(健次郎)である。長女の常子は陸軍大尉の山川清房に嫁ぎ、次女の光子は絹織業の振興につくした実業家の河田精一に嫁ぐ。三女の音羽子は牧師の大久保眞次郎に嫁ぎ、その子である久布白落実は女性運動家。四女の初子は湯浅治郎の後妻となって、伯母の楫子が校長の桜井女学校に身を寄せ、その頃始めて着手された幼稚園の研究をした。孫に考古学者の徳富武雄がいる。
 「淇水老夫」の下に、白文の「徳富一敬印」、朱文の「八十八翁淇水」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E4%B8%80%E6%95%AC
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/tokutomi_ka.html
http://www.toshihiro.co.jp/tokutomi/sohoukinenkan
http://go-minamata.jp/about-minamata/commending/commending02.html
http://www.mishimayukio.jp/soho.html


参考文献一覧      HOME