阪谷 朗廬 さかたに ろうろ
   

昨夜輕雷驅雨歸
嶺頭晴色曉斑々
天風一掃殘雲散
掲出日邊新沐山
昨夜の軽雷 雨駆けて帰る
嶺頭の晴色 暁 斑々たり
天風 一掃 残雲散る
掲出(=かかげて出す) 日辺(=太陽のあるあたり) 新沐の山
29.5p×21.6p

文政5年11月17日(1822年12月29日)生〜明治14年(1881)1月15日歿
 名は素、号は朗廬、幼名は素三郎、通称として希八郎も用いた。また、阪谷素名義での著作もある。川上郡九名村(現在の井原市美星町)の庄屋を務めた坂田家に生まれた。
 幼少の頃、大塩平八郎に学び、ついで江戸で同郷の昌谷精渓の門に入り、のちに江戸に出て、昌谷精渓・古賀侗庵に学んだ。
嘉永4年(1851)母の病で帰郷し、伯父で蘭学者の山成奉造(山鳴大年)の協力により、後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町簗瀬)に桜渓塾を開いて近隣の子弟を教えた。
 2年後の嘉永6年に、領主である一橋家の代官友山勝次によって開設された郷校「興譲館」(後の興譲館高等学校)の初代館長に就任するなど、地元で後進の指導にあたった。
 幕末動乱のこの時期、朗廬は開国派の立場であったとされる。
 1868年に広島藩から藩儒、藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)主席教授として迎えられるが、明治3年(1870)に廃藩置県で辞職。翌年には再び東京に転居し、明治政府の陸軍省に入省。その後文部省、内務省などの官職を歴任した。また、開国論を主張し議会主義・海軍充実を説く開明派であり、福沢諭吉らとともに日本初の学術団体である明六社に参加、唯一の儒学者として活動し、世界共通語の必要も唱えていた。明治12年(1879)には東京学士会院議員に選出された。
 明治13年(1880)には再び教育を行うべく春崖学舎を設立したが、翌年に小石川の自宅で病没した。
 「朗廬小翁」の左に、白文の「素印」、同じく白文の「子綾」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E8%B0%B7%E6%9C%97%E5%BB%AC
http://www.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/sakataniroro/rouro-short.htm
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/sakatani-rouro/sakatani-rouro.htm
http://mahoroba.city.ibara.okayama.jp/detail_j.php?offset=28&rows=83&whstr=&taisho=jin&whstr3=&nameJ=&key_wJ=&mokujiJ=&ageJ=&pageJ=


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