萩原 廣道 はぎわら ひろみち
   

立春日
もろこし(唐土=中国)は 猶冬ならし(…のようだ) 今ぞやゝ
わが日の本に 初日さすなる
6.0p×36.2p

文化12年2月19日(1815年3月29日)生〜文久3年12月3日(1864年1月11日)歿
 江戸後期の歌人・翻訳家・作家・国学者・岡山藩士。備前上道郡網ケ浜(岡山市中区網浜)に生まれる。父藤原栄三郎台得は岡山藩士。
 はじめ岡山藩に仕えて藤原小平太浜雄と名のったが、浪人となって大坂へ出てから、鹿蔵あるいは鹿左衛門と改めたという。号は葭沼・韮園・蒜園・鹿鳴草舎・出石居・鹿沼など。
 幼時より利発だったが、実母をはじめ家族が次々没し、父の病弱もあって家庭的には恵まれなかった。父の死後家格を下げられ、藩士としても待遇は悪く、弘化2年(1845)には藩を退き大坂に出る。
 以後は大坂の地で不安定な生活を余儀なくされ、貧困からの逃避のため大酒におぼれ、晩年は中風にかかるなど、荒廃した日々を送った。
 広道は10歳代に早くも平賀元義に和歌の指導を受け、本居宣長に私淑し、大国隆正に師事。20歳代で『百首異見摘評』をまとめて香川景樹批判の立論を行うなど、早熟の才を発揮した。大坂では諸書の板下書きで収入を得ながら多くの国学者、歌人と交流を持ち、独自の国学を樹立するに至る。
 特に国学書、歌学書の企画、出版に関与すること多く、編集者としての能力を備えてもいた。文才は戯文『あしの葉わけ』や読本の執筆にも向けられた。『源氏物語評釈』14巻(1861) は緻密犀利な評論において先人未到の域に達したが、病のため惜しくも〈花宴〉巻までで中絶した。部分注釈とはいえ広道の全業績を代表するに足る
 著書は上記のほか『遺文集覧』『本学提綱』『小夜しぐれ』『てにをは係辞弁』等20種に及ぶ。

推奨サイト
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