原 古處 はら こしょ
   

天孫闢國大瀛東
不與蠻夷猾夏同
百億萬年唯一姓
星辰拱在五雲中
文政甲申春暮 古處山樵
原震平 士萌
天孫 国を闢(ひら)(=天孫降臨(天皇家のの起源に関する神話)) 大瀛(=大海)の東
不与(=心中おもしろくなく思う) 「蛮夷夏を猾(みだ)(『尚書・書経』)」に同じ
百億萬年 唯一の姓
星辰(=星座)(こま=何もしないで傍観する)ぬく在り 五雲(=仙人や天女が遊ぶ所にかかるという五色の雲)
文政甲申(=文政七年)春暮 古處山樵
原震平 士萌
26.6p×120p

明和4年(1767)生〜文政10年1月22日(1827年2月17日)歿
制作年 文政7年(1824) 58歳
 筑前国秋月(現在の朝倉市)藩士手塚辰詮の次男として生まれる。秋月城背後に聳える古處山より号をとって「古處」と称した。通称は震平、諱は叔Y。幼少より利発で学問を好み、その優れた資質を買われて秋月藩校稽古館の教授原坦斎の養子となる。
 18歳で藩命をもって福岡へ赴き、亀井南冥を祭酒(館長)とする甘棠館に入学。詩作に優れ、亀井門下の四天王の一人といわれたが、養父の坦斎が病に倒れたため、入門からわずか2年数ヶ月で秋月に帰郷。まもなくして坦斎が死去したため、その後父の跡を継ぎ21歳で藩校稽古館の訓導となった。
 寛政元年(1789)34歳にして、それまで助教を務めていた小川晋斎の後任として稽古館助教に就任、寛政12年(1800) 34歳で稽古館の教授に就任する。
 文化2年(1805) 39歳の時、秋月藩8代藩主黒田長舒の許可を得て屋敷地を拝領し新たに私塾古處山堂を開く。
 9代藩主黒田長韶の代には家禄を14石の無足組の一介の平士から42歳で百石の御馬廻組の役人格に、さらに御納戸頭に昇進し、参 勤交代の際には藩主に随行して江戸へ赴き諸国の文人墨客達と交流している。
 しかし文化8年(1811)、秋月藩家老宮崎織部と渡辺帯刀の2名が罷免される事件(通称『織部崩れ』)が起こり、古處もその煽りを受ける形で翌文化9年(1812)、稽古館教授を含めすべての役職を失う。
 文化10年(1813) 47歳で退隠を願い出て、長男瑛太郎(白圭)に家督を譲って、甘木町(現朝倉市甘木)に天城詩社を創設して詩人の生活に入り、近隣各地の文人との交流を深めた。
 自由と余暇を得た古處は恩師亀井南冥が愛用した「東西南北人」の印を携え、妻雪、娘采蘋と伴に諸国を遊歴し、各地の文人と会し多くの詩作をし、その詩名は海西随一とうたわれた。
 文政10年(1827) 61歳で没し、秋月の西念寺に葬られ、墓石の文字『原古處先生之墓』は頼山陽の書、墓碑側面には広瀬淡窓作の漢詩が刻まれている。
 古處は詩人としても有名であり、その多くは『古處山堂詩集』などにまとめられている。娘の猷(みち)も男装の女流詩人として名を知られた。
 「古處山樵原震平士萌」の下に、白文回文の「原震平印」、朱文の「士萌」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%87%A6
http://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297056704407/
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf13/13-165-175-Kotani.pdf#search=%27%E5%8E%9F+%E5%8F%A4%E5%87%A6%27
https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%87%A6-1102511
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo39.htm
http://inoues.net/club/akiduki/akiduki_ijin.html


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