植松 有信 うえまつ ありのぶ
   

切戀
消えねただ いと田もなだの うらぶれて
おもひこがるる 海士のもしほ火
切恋(=切ない恋)
消えねただ(=消えないでほしい) いと田(=いと良き田)も なだ(=灘)の うらぶれて
おもひ(思い)こがるる 海士(あま)のもしほ火(=藻塩を焼く火)
43.8p×31p

宝暦8年12月4日(1759年1月2日)生〜文化10年6月20日(1813年7月17日)歿
 尾張藩士植松信貞と側室松栄院との間に生まれる。幼名市九郎、長じて忠兵衛と称した。
 田中道麿の門に入り国学を学ぶ。17歳の時、安永3年(1774)2月1日父が金方納戸勤務中の借金あるいは上納金の滞納とされる理由で牢人となり、一家は幅下の屋敷を追放された。
 天明2年(1782)5月田中道麿から借用したと思われる本居宣長『万葉集玉の小琴』を写しており、この頃から国学に接していたことがわかる。
 天明5年(1785)1月22日父の病死後、縁戚の大原平兵衛方に預けられたが、平兵衛の斡旋で借家に住み、兄の波吉も出家していたため、母と兄弟を呼び寄せ、京都遊学中に習得した板木彫刻で生計を支えた。これがきっかけとなり本居宣長の『古事記伝』出版に携わることになる。
 寛政元年(1789)3月松坂から本居宣長が名古屋に来訪すると、27日木田行に随行した際、正式に入門し、本居の指導を受け国学・和歌に対する知識を深め、次第に宣長門下で構成されるいわゆる名古屋社中の世話役を務めた。
 寛政4年(1792)3月7日から24日まで宣長が名古屋に再訪した際、有信の広小路柳薬師の西隣の家に寄宿した。宣長は、門下のために講義し、質疑に応じ、歌文を添削し、20日ほど逗留した。宣長はこの時の有信の心からなるもてなしに感謝し、「花ならぬ人のなさけの色深みはるよりをしき春の別路」という歌を贈った。
 また、『古今集遠鏡』『新古今集美濃の家づと』『新古今集美濃の家づと折添』『玉勝間』『玉くしげ』『玉の小櫛』『うひ山ぶみ』『鈴屋集』等、多くの宣長の著作の板刻を手懸けた。
 特に寛政11年の『真福寺本将門記』は原本の字体・返点・仮名を忠実に板刻したもので、板木師としての仕事も充実していた。
享和元年(1801)師宣長が病没した時には山室山奥墓で7日間奉仕し、『山室日記』はその時の記録。
 その後、宣長の子春庭に入門し、『山室日記』『今ひとしほ』『長閑日記』などを残した。横井千秋・鈴木朖など交友関係は広く、社会的信望も厚かった。
 家庭的には妻伊勢との間に実子はなく、門人の一人、小林茂岳を養子として迎えた。茂岳は尾張藩士に復帰し、明倫堂教授を務めた。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%BE%E6%9C%89%E4%BF%A1
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/uematsu.html
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%8D%E6%9D%BE%E6%9C%89%E4%BF%A1-19278
http://soutairoku.com/01_soutai/01-3_u/01-4_e/uematu_arinobu/uematu_arinobu.html
http://silver.ap.teacup.com/syumoku/104.html


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