宝井 其角 たからい きかく
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田を見めぐる神さまならば せめて夕立ぐらい降らせてくださるだろう |
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「三囲」を「見めぐり」にかけている。また、五七五の頭に「ゆたか=豊か」を折り込んでいる。 |
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墨田区・向島 三囲神社(みめぐりじんじゃ)の宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞いの碑)の案内板に、 元禄6年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていた。 ちょうど三囲神社に詣でた其角が、このありさまを見て、能因法師などの雨乞いの故事にならい、この句を詠んだ。 とある。 其角自選句集「五元集」に「牛島三遶の神前にて 雨乞するものにかはりて 夕立や田を見めくりの神ならは 翌日雨ふる」とあり、翌日に早速効果があったと記載されている。 推奨サイト http://jmapps.ne.jp/sumida_bunkazai/det.html?data_id=101474 http://umebachiya.com/edokaiwai/mimeguri/mimeguri.htm http://www.mitsuipr.com/special/100ka/11/index.html https://sites.google.com/site/edomeishozue/home/07/san-weiinari-sha |
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35.7p×24.7p |
寛文元年7月17日(1661年8月11日)生〜宝永4年2月30日(一説には 2月 29日) (1707年4月2日)歿 元禄6年(1693) 33歳 |
江戸時代前期の俳諧師。 本名は竹下侃憲。別号は螺舎、狂雷堂、晋子、宝普斎など、通称は茅場町の宗匠。はじめ、母方の榎本姓を名乗っていたが、のち自ら宝井と改める。 江戸下町堀江町(一説にはお玉が池)で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順の長男として生まれた。幼名を源助といい、何不自由のない、あたたかい家庭に育った。医者を志すとともに、都会的な環境の中で文芸や四書五経など十分な教養教育を受けた。書を佐々木玄龍、画を英一蝶、儒学を服部寛斎に学ぶ。 延宝年間(1673-1681年)の初めの頃、文芸に傾倒し、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。わずか14歳にして芭蕉に認められ、たちまち高弟のひとりと数えられるようになる。一方、早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった。蕉門十哲の第一の門弟として知られ、とくに洒落風の句を得意とした。芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となる。 芭蕉との関係は相反する面を多く持ち、尊敬し合う関係と同時にライバルとしての感情も強く持ちあわせていた。其角の作風は軽妙で庶民的な滑稽さをたたえたものが多く、師芭蕉の枯淡な風情といかにも相容れないものであったため、他の門人からはとやかく言われた。が、芭蕉は「私が静寂を好んで細やかに唄う。其角は伊達を好んで細やかに唄う。その細やかなところは同じ流れなり」と誰よりも理解を示し、芭蕉は其角にとって実によい師であった。また、其角の句は見事に江戸情緒を詠んだものであることを、何よりも芭蕉は認めていた。 元禄時代をにぎわせた「赤穂事件」では、浪士側に立って彼らを支援するなど反体制的行動も人目を引いた。 また、父親東順が近江の出であったこともあって、上方文化にも精通していたために、しばしば関西を訪れ、そういう機会に知り合った去来を蕉門に誘うなど、一門のリクルートを支えもした。たまたま、上方旅行の最中に芭蕉の危篤を知り、江戸を本拠とする門弟の中で唯一芭蕉の死に立ち会うという「強運」の持ち主でもあった。 なお、隣接して荻生徂徠が起居して私塾?園塾を開いており、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある。 宝永4年、永年の飲酒が祟ってか 47歳の若さで亡くなっている。著書は『花摘集』『其角十七條』『枯尾花』『五元集』など。 推奨サイト http://ameblo.jp/honmokujack/entry-10503906839.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%95%E5%85%B6%E8%A7%92 http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kikaku.htm http://www.sakanaya.co.jp/history/03_08.html http://tokyoweb.sakura.ne.jp/noyaki/essay/kikaku/kikaku.html http://www.kusuya.net/%E5%AE%9D%E4%BA%95%E5%85%B6%E8%A7%92 |
拝復 〇〇〇〇 祖先が雨乞の句 三囲神社へ奉納の〇 真蹟疑もなし 有〇なる歴史にも有て かたがた御愛蔵可然(しかるべし) 依而(よって) 鑑證一札 右添 御返書申し候 頓首敬具 戊午(大正七年1918)寝覚月(九月)末日 其角堂拝 久保田大人 き下(机下) |
雨乞いの碑は、安永6年(1777)に其角の末裔により建立されたが、その後摩滅したため、明治6年(1873)に七世其角堂永機により再建された。永機は六世其角堂鼠肝の長男で、明治20年、田辺機一に八世其角堂を譲った。その八世其角堂機一が、元禄の昔から久保田家が旧蔵してきたこの軸を、大正7年(1918)9月虫干しの際に改装されたのを機に鑑定し、其角の真蹟だとして鑑證一札を発行し、併せて箱書きをした。 此 雨乞の懐紙は元禄の昔より久保田家の愛蔵にして あまりに表装やつれてくるにより 〇〇〇 虫干の折 表装を改め 器とも修理せる事と成ぬ 大正八稔盛夏吉辰 晋其角傳燈八世寶晋齋機一機 白文の「寶晋齋」印 |