西川 春洞 にしかわ しゅんどう
   

明徳
諸橋大漢和辞典には、「明徳」とは「聡明な徳。人の心にもつ、くもりのないあきらかな徳性。」とある。
51.5p×33.5p
 『大学』冒頭に「大学之道、在明明徳。在親民。在止於至善。」とあり、朱子学では、オトナの学校「大学」の学習論の第一が「明明徳」(明徳ヲ明カニスル)であるとする。そして「明徳トハ、人ノ天ニ得テ、虚霊不昧、モッテ衆理ヲ具シテ、万事ニ応ズル所ノモノナリ」と言う。この「人ノ天ニ得テ」とは、『中庸』の冒頭「天命之謂性」(天ノ命ズル、之ヲ性ト謂ウ)の解釈と連動して、「人間の本性が善であることは「天」から命ぜられたものなのだ」とし、「明徳」の属性の第一を、このような人間の本性に基づく徳と定義した。
 朱子学は江戸時代、藤原惺窩の京学派が起こり、門弟の林羅山に引き継がれた。その後、木下順庵・中村愓齋・貝原益軒・室鳩巣・山崎闇齋・浅見絅齋・佐藤直方・柴野栗山・尾藤二州・佐藤一齋ら多くの学者を輩出した。

弘化4年1月25日(新暦 1847年3月11日)生〜大正4年(1915)8月10日歿
 江戸の生まれ。名は元譲。字は子謙。春洞は号。別に絵・篆刻用に如瓶人・大夢道人・茄古山民と号す。肥前(佐賀県)唐津藩士元琳の子。
 初め祖父亀年の手本によって手習いを始めた。嘉永4年(1851)5歳のとき中沢雪城の門に入り書法を学んだ。6歳のときに楷書で〈千字文〉を書き、また方六尺の〈奇秀〉の二大字を書いた。さらに万延元年(1860)14歳のときには楷書・行書・草書の三体の〈千字文〉を書いた。
 慶応元年(1865)19歳の頃から唐の法帖・拓本の臨書に努めた。明治元年(1868)22歳のとき大蔵省に出仕したが、まもなくやめた。そしてその後は文墨に専念した。多趣味にして多芸多能の人であり、俳句・狂歌・都都逸・端唄・三絃・月琴などを善くし、さらに絵も描いた。
 13年、楊守敬が来朝して、六朝碑学の新しい動向を紹介した。これがきっかけとなって、15年に中林梧竹が清国へ行き潘存に書法を学び、24年には日下部鳴鶴も清国へ行き呉大徴・楊見山に益を受けたが、春洞は清国へも行かず、専ら拓本・法帖によって中国の書法を学ぶことに努めた。春洞の門下から豊道春海をはじめ、すぐれた弟子が輩出している。西川寧は春洞の三男。
 「春洞居士元譲」の左に、白文の「西川元譲印信」、朱文の「春洞長寿」の落款印が押されている。

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