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『朝陽閣帖』

石版印刷による書跡集 『朝陽閣帖』

 能筆家の書跡を手本や鑑賞用に模写したものを法帖といい、それは石に刻まれ、さらに拓本にもされることがありました。『朝陽閣帖』は明治甲申(17年・1884)にその拓本を印刷したものです。当時、東京大手町にあった印刷局の工場が朝陽閣と呼ばれており、それを冠した名称がつけられています。書道の手本として有名な千字文や書聖・王羲之の書などを収めた帖がつくられました。
 この『朝陽閣帖』は、複数の帖を一つにまとめたものや、異なる装丁のものがつくられています。印刷局ではこれを販売し、名筆を手軽に鑑賞できる機会を広く一般に提供しました。

印刷局の新工場「朝陽閣」

明治9(1876)年、東京・大手町に落成しました。建物は、お雇い外国人技師の設計による赤レンガ造りの西洋建築で、当時はまだ珍しいものでした。そのモダンな姿は、世間の大きな話題となったのです。
 朝陽閣は、建物の外観もさることながら、日本経済を支えるお札や切手の製造を一手に担った唯一の印刷工場であり、いち早く西洋式の印刷技術を実用化した印刷業界のパイオニアでもありました。
 時の印刷局長、得能良介は、それまで欧米に製造委託されていた日本のお札事情を憂え、国の威信にかけてお札を国産化しようと、朝陽閣を建てたのです。そこは、当時最新の機械とお雇い外国人技師、そして1000人ほどの職員を擁した、最先端の大規模工場でした。
 印刷局の基幹工場であった朝陽閣は、印刷局の象徴として記念絵はがきなどにも登場します。錦絵とは趣のちがう姿にご注目ください。
 朝陽閣は、大正12(1923)年の関東大震災で崩壊し、その姿は失われてしまいました。

大蔵省印刷局

明治4年(1871)大蔵省の中に設けられた紙幣司を源とし、同年紙幣寮(紙幣寮の長は渋沢栄一)と改称されました。当初は紙幣の製造・発行・交換などを業としていましたが、明治10年(1877)紙幣局、翌11年大蔵省印刷局と改称され、発行・交換の仕事は大蔵省に移され、以後作業官庁として現在に至っています。
その間、明治8年(1875)太政官の印書局と統合して紙幣寮の名称で活版印刷事業も行うようになり、1898年内閣の官報局と併合され内閣印刷局と改称、さらに1943年再び大蔵省印刷局、1949年印刷庁となりましたが、1952年三度大蔵省印刷局となって現在に至っています。
 
池原鹿之助 君去将帰国。余贈魯公明遠帖。此帖祭姪以下不欲見。然其明遠之俊勁、猶可賞攻也。君玩而有徳則知。余贈之、之意。

君去りて将に帰国す。余 魯公明遠帖を贈る。此帖 祭姪以下見たいと欲せず。然し其の明遠 之れ俊勁(優れて強い)、猶 賞攻(ほめる)べし也。君玩(めでる) 而るに有徳(得るところがある)則ち知る。余 之れを贈る、之の意なり。

池原鹿之助

明治-昭和時代前期の官僚,実業家。
明治4年(1871)8月、愛媛縣士族池原利三カの二男に生まれる。明治21年分れて一家を創立した。明治30年東京法学院(現中央大) を卒業し文官高等試驗に合格し、農商務省に入り、内務省に転じて奈良県参事官となり、大阪市助役を?任した。後ち官を辞して藤田組に入り理事に挙げられ在職10余年に及ぶ。大正9年是を辞し日本水道衛生工事会社を設立して取締役となった。傍ら前記会社の重役を兼ねた。昭和10年(1935)1月5日死去。65歳。

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