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奥の細道

 松尾芭蕉の紀行文の代表作として著名な奥の細道には曽良本・去来本・柿衞本などがあるが、元禄7年(1694)初夏、能書家の柏木素龍に託し完成した本書を、芭蕉は亡くなるまで肌身離さず持ち歩いていた。その死後、遺言により去来に渡った本である。その後、井筒屋庄兵衛に渡り、その叔父の久米升顕・吹田几遊の手を経て敦賀の西村家に伝来し、今日まで守り伝えられてきた。(参考 奥の細道諸本系統図 (yamanashi-ken.ac.jp))
 なお素龍は本名柏木儀左衛門、また藤之丞といい、京の人で江戸住。歌学を北村正立に学び、上代様の書を得意にした。野坡の手引で芭蕉に接近し、芭蕉はこれに書を学んだという。俳諧のたしなみもあり、「炭俵」に九句入集、その板下も素龍の筆である。
 題簽は芭蕉自筆と見られる。奥書に「奥の細道元禄七年初夏素龍書写奥書」とあることから、「おくのほそ道」素龍清書本と呼ばれる。この素龍本は芭蕉が認めた奥の細道の決定稿であること、また元禄15年に井筒屋から版行した「奥の細道」の元禄版の底本であり、奥の細道研究の基礎根幹にあたる唯一無二のものとして、昭和47年に重要文化財に指定されている。

 井筒屋庄兵衛は、江戸時代の書肆(出版業者)。初代から5代まで続き、俳諧関連書を中心に出版活動を行い、素龍清書本の元禄版(元禄15年)・明和版(明和7年)・寛政版(寛政元年)を出版した。
井筒屋庄兵衛元禄版(元禄15年)
 素龍清書本が去來の手もとにあった時に、京都の井筒屋庄兵衛方から、桝形本の体裁で板行されたもの。透き写しにしたもので、書体、宇配り等全く素龍清書本に変りはないが、不注意による数か所の小異同が見られる。いわゆる井筒屋本として、世に広く流布したもので、阿誰軒の「誹諧書籍目録」の元禄15年行書中に「奥の細道 芭蕉翁奥州紀行去来本 二匁」とあるので、元禄15年の出板と推定されている。
元禄版跋文
 此一書ハ、芭蕉翁奥羽の紀行にして、素龍が筆也。書の縦五寸五歩、横四寸七分、紙の重五十三、首尾に白紙を加ふ。外に素龍が跋有今略之 行成紙の表紙、紫の糸、外題ハ金の真砂ちらしたる白地に、おくの細道と自筆に書て、随身し給ふ。遷化の後、門人去来が許に有。又、真蹟の書、門人野坡が許に有。草稿の書故、文章所々相違す。いま、去来が本を以て模写する者也
井筒屋明和版奥書(明和7年)
 此巻は、古師芭蕉翁の紀行にして、素龍清書す。書の長五寸五分。はヾ四寸七分。紙の重五十三。初終に白帋あり。行成の表帋、紫の糸を以てとぢ、外題は、金の真砂ちらしたる白地に、みづから奥の細道と書、年月頭陀の内にかくして、行先行先に随身し給ふ。元禄七年水無月、予が方に偶居ましまして、かつかつほのめかし給ふを、書写の事深く乞奉りけるに、同じ年の神無月、難波のあしのかりねに心地なやみ給ひぬと聞えぬれば、急ぎとぶらひまかりけるに、枕近う呼給ひて、けふ我やまひ頻なり。汝日ごろ此集の求ふかし。今、将に足下に譲りなん。不思議にもながらふるためしもあらば、写しとヾめて本の書を返すべし。書は、兄の慰にとて、古郷に残し置ぬれば、つとつとに倡送るなるべしと、聞え給ふ。かたじけなくも悲しくもかしこまり、やがて写しとヾめて、めで度此巻は捧侍りなんと涙を落しぬ。かくて、遷化の後、兄の許へ文して乞奉りけるに、今は、かやうのものをこそ、しばしとヾまるべき老のかたみともなぐさみ侍れば、いさゝか手をはなち侍らんも浅間しう覚られぬれど、遺言なれば、送りやりぬ。且は、奥羽の旅寝の夢の跡もなつかしく、且は、門葉の人々の手跡もめづらしと見まほしければ、予に書写して送り侍るべしと也。然ば、ふたゝび能書をゑらぶによしなく、やゝその製をたがへずといへども、なを誤字・落字の多からん事を恐れ侍るのみ。
濡つ干つ旅やつもりて袖の露   元禄八乙亥年九月十二日    於嵯峨落柿舎書写焉   門人去来拝

細道伝来記

 西村家には素龍清書本とともに三四坊の「細道伝來記」が所蔵されているが、これによって伝来の経路が明らかである。三四坊は加賀の山中の人で、勝見氏、名は充茂、二柳・桃左などの別号がある。若い頃諸国を遍歴したが、宝暦9年頃は敦賀に居り、錦渓舎琴路の乞に応じてこの記を書いたものと思われる。芭蕉の遺言によって去來の手に帰した素龍清書本は、去來の死後、叔父に当たる久米氏に伝わった。久米升顕は長崎から京に出て医を業とし、法眼に叙せられた人である。その後升顕の娘が若狭小浜の吹田几遊に嫁ぐに際し、引出物として贈られたが、几遊は若死をしたので、未亡人から重縁に当る錦渓舎琴路に譲られた。琴路は白崎氏、通稱を庄次郎といい、俳人として知られていたが、その没後親戚のゆかりで愛發村新道野の西村野鶴に譲られた。野鶴その子久富ともに俳諧を嗜み、代々風雅の家であったので、素龍清書本も紙魚の害を受けず、今日まで保存されたのである。


人をしてこの人にあたふるものか誠に風雅の冥加なるをやかくて路子はその書を十襲して永く錦渓舎の秘蔵たらんには我は又そのことを記して遠く百世に伝来の故を證しかつ
その幸をうらやむのみ
  宝暦己卯歳次
  仲秋上浣

埋れて終に白魚虫のために巣となり果んもいと本意なしとてその室のもとよりそのなき人の形見には贈りぬとそいてや達磨太師の楞伽を二祖の恵可に授け黄石老人か蹈略を門子
の張良に伝しなとみなたゝその志の師道を守りて道に信仰の感得といふへし今や路子が生質をおもへは俳諧に累年の螢雪をかゝけて心上つねに信を忘れさるより天その

これをあたえしとなん茲に久米氏の女なりける人若狭の府に吹田氏の家に婚姻せるに夫は何某几遊と称して京家に誹諧の優人なれは実やその門は異なれとも遊ふこゝろのたかはさるには
誠に一箇の珍器なるをとそのひきてものには贈れるならんかしされと遊子は不幸短命にして身まかりけるを路子はかつてその家にしたしきゆかりあれはかくはかりいみしきものゝいたつらに

古翁つねに随身し給へりしをそのゝち嵯峨の落柿舎にこひうけてそこにめてたき家珍には備へけりとそのよしは其奥かきに詳かなりしかなをそのゝちの行衛をしらすさるをことし宝暦
己卯の秋ならんゆへありて角鹿なる琴路亭にこれを得たりさるはそのころ洛に久米何某といふものありて去來にしたしきちなみあれは去子か自筆の短冊なととり添てかの久米氏の人に

細道傳來記
          三四坊誌
奥の細道はむかし鼻祖翁東北の紀行にしてその世に鳴り今にひゝきて世あまねくしる處也されやその清書は武の素龍に毫をとらしめて

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