訪 碑 記

 1994年、95年と、2回にわたって麟游県博物館の館長王麟昌先生を尋ねました。ここは、かつて太宗の別荘九成宮があった場所ですが、現在は僅かに、急な坂道の途中に碑亭のみが再建されています。その2つの碑亭の中に《九成宮醴泉銘》と《萬年宮銘》が、それぞれ保管されています。
 麟游県への道は唐の昔を忍ばせます。何度、車のシャーシを擦っただろう、崖っぷちの砂利道をおっかなびっくり進みます。ザラザラザラ、路肩が崩れて谷底へと落ちる。対向車が来るとタイヤの半分が落ちているようです。この次ぎは四駆で来よう、真剣にそう思いました。
 ようやくのこと麟游県にたどり着きました。しかし、この街はまだ蝋燭(ロウソク)の暮らしだといいいます。また、水が悪く、奇形の人も多いそうです。醴泉(甘露な水)が湧き出したのではないのか?
 麟游県には、当然のこと西安からは電話も通じません。アポを取らずに来ましたが、やはり館長は不在でした。碑亭の鍵は館長しか持っていません。彼に逢えなければ、このまま帰ることになります。
 ガイドも運転手もあきらめました。昨年はガイドの元さんのおかげで逢えました。顔を知っている私と家内は必至になって街中を探し回りました。
 いた!私が手を振ると館長も答えてくれました。ごっつい手が差し出され握手。私を覚えていてくれました。早速、車に同乗してくだされ、碑亭へと向かいました。
 碑亭はトタン塀に囲まれ、外部からはまったくその姿は見られません。分厚い鉄の扉をくぐると、碑亭が2つ並んでいます。手前が《萬年宮銘》、そして奥が《九成宮醴泉銘》です。碑亭の扉が開かれました。痛々しいほどやつれた《九成宮醴泉銘》が再び私たちを迎えてくれました。
 《九成宮醴泉銘》の原碑は、露天に建てられたまま風雨にさらされ、浸蝕をほしいままにし、辺りは荒野と化していたといいます。碑基の鋳鉄は腐蝕し、砕身は亀座からはずれ、底部の下2行は損壊してしまいました。嘉慶8年(1803)5月、麟游知県の云魁がこれを見て、小屋を作って保護しました。
 しかし、門も窓もなくなり、屋根も朽ち果てました。また、地震・水害などの自然災害により4本の裂紋ができてしまいました。加えて、拓をとる者が絶えず、筆画は痩せ細り、文字がはっきりしなくなりました。
 そこで、王麟昌先生によると、当時の書家によって原碑に刀を入れたといいいます。何ということだ、信じたくないが事実です。
 1959年に至り、陜西省文管会が磚木小屋を作って保護しました。そして陜西省重点文物保護単位に指定され、1986年、現在の碑亭が作られ、鍵の掛かるアクリルの箱に収め、大切に保存されました。
 もちろん拓本も写真撮影も禁止されました。しかし、幸か不幸か、地理的条件に加え、この管理体制によって、ここを訪れる者は、ほとんどいないといいます。
 2度目ということで、館長は朋友として扱ってくれました。昨年は碑亭の外側しか駄目だった写真扱影が許され、手を加えた跡などもしっかりカメラに収めました。また、館長は記念写真(右端)にも入ってくれました。


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