作 品 解 説

 成立年代  唐時代 貞観6年(632)
 筆   者  歐陽 詢 (76歳の作品)
 撰   文  魏  徴
 書   体  楷書
 現   存  陝西省麟遊県天台山
 形   状  碑の字面  縦…約170cm  横…約110cm
         1行50字×24行
         1文字の大きさ  約2.5cm
         碑高  2.3m弱
         碑幅  1m強 
 九成宮とは唐王朝の別荘のことで、今の陝西省西安西北150qの陝西省麟遊県からさらに西数qの天台山という深山にありました。宋の程大昌の『雍録』巻四の「九成宮」や『読史方輿紀要』巻五五・陝西四・麟遊県の条によれば、元来は隋の文帝(楊堅)が避暑用の離宮として楊素に命じて造営させた仁寿宮で、開皇13年(593) より2年がかりで築かれた大宮殿です。垣周1800歩あったと伝わっています。
 貞観5年(631) 、唐の太宗(李世民)はこれを修復し、九成宮と改め、離宮としました。九成という名の由来は、恐らく、馬融の「長笛賦」(『文選』巻十八)に、「託九成之孤岑、臨万仞之石堯」(九重に重なった孤峰の上に依り、万仞の谷に臨む)という典拠に基づき、この宮殿が山の幾層にも重なりあった場所にあることに因んだもののようです。
 翌6年(632) 太宗が避暑に出向いた時、皇后を伴い散歩していると、偶然にも西の方の一隅に潤いのあるところを見つけ、杖でつつくと奇しくも醴泉が湧き出しました。醴泉とは「泉味の甘きこと醴の如き」という意味で、甘味な水ということです。
 太宗はそれを唐朝の徳に応ずる一大祥瑞と喜び、魏徴に撰文させ、歐陽詢に書丹させて建てた記念碑が、この「九成宮醴泉銘」です。
 この銘文は九成宮の優れた有様を華麗な四六駢儷体で表現しています。四六駢儷体とは、日本でいうと時代劇のエンディングなどに使われる七五調のような、流麗でしかも韻をふんだ実に漢文の傑作と言える文体です。
 銘文では、太宗の高徳、質素倹約のさまを褒めたたえ、オーバーワークの太宗の健康のためにこの避暑離宮が是非とも必要と群臣が請い願ったとありますが、『旧唐書』太宗本紀によれば、貞観6年は3月から10月、同7年は5月から10月まで、同8年は3月から10月までと、御幸は毎年かなりの長期に及んでおり、実際には太宗のお気に入りであったことが窺えます。
 しかし、貞観9年以後、父の高祖・皇后の長孫氏の崩御のため貞観12年まで中断しました。その後、貞観13年(639) の4月から10月まで御幸して以来、ここには二度と来ませんでした。
 さて、この銘文では醴泉が湧き出でたことが文の中心になっています。湧き出て宮中に流れ注ぐ有様を、
 「其の清きこと鏡の若く、味の甘きこと醴の如し。南は丹霄の右に注ぎ、東に流れて、双闕を度る。青瑣を貫穿し、紫房を遙帯し、清波を激揚し、瑕穢を滌蕩す。」
と著しています。
 ここでいう瑕穢(けがれ)とは、その造営の時の不吉な話のことです。『資治通鑑』巻178・隋紀2・文帝開皇13年の条によれば、「役使すること厳急にして、丁夫多く死し、疲頓顛仆(疲れ倒れる)す。推して坑坎を(これを埋葬することなく谷に蹴落として)填め、覆うに土石を以てし、因りて築きて平地を為す。死者は万を以て数う。」とあります。
 文帝は不快に感じましたが、後、年の暮れに仁寿宮に登って四方を見渡すと、火の玉が一面に広がり、すすり泣く声が聞こえました。部下に調べさせたところ鬼火だということです。文帝は、これは工事で亡くなった者が年の暮れに至って家に帰ろうと望んでいるのだろうとして、祭壇を設けて酒を注ぎ供養をしました。この伝説を指して瑕穢としています。
 醴泉の湧出は水源のなかったこの宮殿にとって貴重なことで、帝の善政がもたらす天下泰平の端兆として、魏徴は列挙して太宗の徳治を賀しています。しかし、一方ではこの泉水が流れ出して、宮殿にまつわる不吉な瑕穢を流し清め禊の役目を果たしたことも、魏徴は強く言いたかったと思われ、勧戒の言葉で結んでいます。
 次の高宗(李治)の代になると、永徽2 年(651) に万年宮と改名されました。高宗は同5年3月に初めて臨幸し、5月15日には高宗自撰自書の「万年宮銘」の碑を建て、この宮殿が噂に違わず素晴らしいと賛じています。しかし同じ5月の末日、夜中に大雨が降り鉄砲水となって宮殿を襲いました。その時、高宗は間一髪で助かりましたが、兵・村人など3000余人が犠牲になりました。以来、高宗の足は遠のき、乾封2年(667) に再び旧名の九成宮に改め、数度臨幸したに止まりました。
 その後、粛宗の至徳2年(757) に杜甫がここを訪れ、有名な「九成宮詩」を賦しています。この詩によれば、この頃には既に廃れた離宮として、荒涼とした中にただ番人がいるだけでした。北宋の時代には、蘇轍(1039〜1112) が兄の軾の任地の鳳翔を訪れた時、この宮跡にも立ち寄り、その有様を詠んで、「子瞻(軾の字)の喜雨亭の北、隋の仁寿宮の怪石」という七言律詩を残していますが、もうこの頃には故宮の建物は見るかげもなく、雑草が生い茂って荒れ果て、九成宮の名は既に忘れ去られ、仁寿宮の跡としてのみ記憶されていました。
 しかし、九成宮醴泉銘の碑文の書跡は、楷法の極則として珍重されました。書を立派に書くこと、特に正しい楷書を書くことは、唐代の官吏として最も大切な条件の一つでした。それは書というものが聖人の教えを表現するための最高の手段であり、その教えを伝えることによって政治を行うのが官吏の任務であるとすれば、書は彼等にとって重要な意味を持ってきます。書が書けることこそ、彼等を一般庶民から区別することの出来る、誇るべき能力であったと言えます。
 更に進んで、立派な書は高い人格の表現であるとさえ考えられました。このような気風を打ち立てたのが太宗です。『唐六典』巻8・弘文館学士の条によれば、太宗は宮中の図書館であり、天子の学問所でもある弘文館に、虞世南や歐陽詢を学士として出仕させ、皇室・外戚や在京の高官の子弟達に楷法を教えさせました。中央の国立大学にあたる国子監にも書学が置かれましたし、地方から官吏に推薦された者の資格試験科目の中にも明書科というものがありました。
 こうした書に対する考え方・捕らえ方は、現在に至るまで生き続けています。そして、この科挙の国家試験を受験するために書を学ぶ。その手本としても九成宮醴泉銘の碑文の書跡は珍重され、その拓本を目的に多くの人が仁寿宮の遺跡を尋ねました。
 しかし、九重の深山、万仞の谷と形容されるこの場所へ行くことは、容易ではなかったようです。その有様は、清の林凜の『来斎金石刻考略』巻下に「宮は久しく蒿莱となり、而して碑は独り存す。覆うに小亭を以てし、繞らすに周垣を以てす。山には且つ虎多し。模搨者は必ず数人 機を持して以て上る。今、碑は既に海内の宝重する所となりて、已に模糊たり。また悪令の為に30余字を鑿損せらる。」とあります。
 碑石は長い年月の間の風化浸蝕、椎拓の過多により損壊が目立ってきます。文字の点画は次第に痩せ、後には一部、研磨・加刻が施され、時には自分の拓したものがその後に拓されたものより旧いことを表わすために文字を意識的に壊したりして、真を失うようになります。もはや当初とはまるで面目の異なった姿と化しています。かろうじてその形模が残っていても、その精神韻度は全く失われています。
 そこで書を学ぶには少しでも真蹟に近い、拓の旧い欠落の少ないものによらねばなりません。が、宋拓を得ることは難しく、仮に有っても余りにも高価で、また宋の時代にすでに翻刻があり、真贋の鑑別は容易ではありません。しかも原石からの拓であっても、新旧によって大きな差があります。また人によっても好みの差があります。明治以後、日本の書壇は楊守敬の影響を大きく受けました。
 楊守敬はその著『激素飛閣平碑記』で、「国朝の無錫の秦氏本」を第一に上げています。日本では、この影響もあって、筆鋒が露わで線のシャープなものが九成宮というイメージがあるようですが、私は李祺旧蔵本を第一とします。
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