殷墟の発掘T

INDEX

 商の人達は迷信深かったようです。上帝(天の神・天帝)が最も権威をもっていて、禍福を降し、風雨を管理しました。人の死後もなお霊魂が残り、貴族の霊魂は上帝の左右にありました。貴族の霊魂は、あらかじめ天の気の変化と人事の禍福を知ることが出来ました。商王は、年の豊凶・風雨の大小・戦争の勝敗・病気など、すべてを先祖にむかって占いました。史官が占った結果を記録しました。それが甲骨文です。武丁時代から二百数十年にわたる記録で、およそ文字数は3500字が現在までに発見されています。
 殷墟の発掘は、1910年、羅振玉が龍骨の出土地を安陽県小屯と確認したのに始まります。しかし、1911年10月10日の辛亥革命により、中断されました。
 1928年、中央研究院(院長=元北京大学校長蔡元培(1868-1940))・歴史語言研究所(院長=「夷夏東西説」の傅斯年)が成立し、予備調査が開始されました。調査には董作賓((1895-1963)元広東省中山大学助教授、当時33歳)が派遣されました。彼と李済(1896-1979)との二人が中心に、外国人に頼らない大規模な考古学的発掘・調査が行われました。
 甲骨文字は先駆者によってかなりの程度まで解読され、甲骨片の採集が目的となりました。しかし、1930年に1年中断されます。政府が各地方に文化財の発掘禁止の通達を出し、文化遺産の海外流出を防ぐのが目的でした。そこで河南省は、中央政府直属の機関からの調査員に抵抗し、上記の通達を盾に取って調査を阻止しました。
 やっとのこと、河南省からも調査員(郭宝鈞・のちに研究院に移籍)が参加する条件で再開されました。この年、研究所の考古班が山東省城子崖遺址を発掘し、殷墟遺址そのものに関心が向きました。そして、大型陵墓・住居・宮廟が確認されました。
 後、梁思永が帰国し、殷墟の陵墓の発掘を指導しました。啓蒙思想家で日本にも亡命したことのある梁啓超(1873-1929)の息子です。アメリカのハーバード大学で考古学と人類学を専攻しました。そして、夏熙(清華大学出身)・劉燿(=尹達・河南大学出身)が活躍し、発掘調査は1937年7月7日の日中戦争勃発直前まで続きました。
 第二次世界大戦終結後、内戦により分裂し、李済は台湾へ、董作賓もアメリカから台湾へと落ち延びました。結果、発掘の資料やノート類は台湾へ行ってしまいました。
 梁思永・夏熙・劉燿・胡厚宣ら発掘隊長は大陸に残りました。そして、郭沫若が院長となって、科学院の機構を創設しました。
 1950年、科学院の下に考古研究所が創設(所長夏熙・副所長劉燿)され、殷墟の発掘が再開されました。そして、60日にわたる調査で武官村で大型陵墓が発掘されました。
 1954年、梁思永が龍山文化に関する論文発表し、その年に死去しました。死後、科学院考古研究所が『梁思永考古論文集』を刊行しました。

 殷墟遺址は、洹河と濠に囲まれていますが城壁は見つかりません。1100m×650mの規模で、偃師尸郷より、遥かに小規模です。宮殿区は、戦前の発掘です。家屋群は、河北省の南寄り、藁城県の台西村の遺址から出土しました。青銅の兜(『侯家荘,1004号大墓』)・銘文のある青銅器が墓から出土しました。銘文は、甲骨文より溯りません。青銅の戈や矛にトルコワーズ象嵌が施されています。他に、白色土器・磁器・絹織物・漆器・打楽器として使う石の板・オカリナ・馬車などが出土しました。銅鉱山も見つかり、銅の精錬を裏付けました。1932年、白土器の残片に毛筆をもって「祀」と墨書したものが出土し、前1384〜前1112頃のものと言われます。


『殷墟博物館苑刊』創刊号より転載

 偃師遺址は、偃師尸郷で発見されました。城壁は、西壁が1710m・北壁1240mで、高さは10mくらいです。宮殿は小城と呼ばれ、塀で囲まれた中にあります。井戸からは、石で囲った排水溝が見つかりました。これにつき、二里頭文化後期より以前に属する(『考古』 1985-4)・一度取り崩して建て替えた(『考古』1990-2)・二里崗文化の時代にも使用された(『考古』1988-2)などの説が発表されました。
 黄陂盤龍城遺址は、湖北省黄陂県盤龍城、武漢の東北約5qの盤龍湖に突出する丘陵から発見されました。東西約1100m・南北約1000mに分布しています。城壁は、東西260m・南北290mです。植民地の城ですが、長期的な都城の性格を持っています。
 夏県東下馮の穀倉?は、山西省南西部、夏県東下馮で発見されました。二里崗文化の一地方型の遺址で、二里崗文化早期に平行する時期の城壁です。
 朱家橋遺址は、平陽県朱家橋で発見されました。方形の家屋跡20余基が出土しました。黄色の硬土を居住面とし、四面に柱穴がほられ、南面に出入口、北壁にかまどの跡があります。鬲などの青銅器は、殷墟と同形です。
 済南大辛庄遺址は、済南市の東の大辛庄村から東南100余mから発見されました。1984年山東大学歴史系考古専業・山東省文物考古研究所・済南市博物館が発掘しました。土器(鬲・尊・豆・釉陶・刻文のある白陶など)100 余件、甲骨約400 片が出土しました。卜骨・卜甲は、安陽殷墟の典型的な遺物と同様の物です。二里崗遺址上層の遺物に近い、比較的早期の遺構も発見(山東省文物管理処「済南大辛庄遺址試掘簡報」『考古』 1959-4・山東省文物管理処「済南大辛庄遺址勘査紀要」『文物』1959-11・山東大学歴史系考古専業・山東省文物考古研究所・済南市博物館「1984年秋済南大辛庄遺址試掘述要」『文物』 1995-61)されました。
 安陽小屯遺址は、河南省安陽県小屯から発見されました。1928〜36年に、刻画符号82件が出土しました。また、1958〜59年に、殷後期の刻画符号3 件が出土しました。


『小屯』殷墟陶器1956より転載

 小屯西地遺址からは、1971年に、安陽前期(早商期)の21片の完整な卜骨が出土しました。うち10片は刻辞があります(『考古』1972-2)
 小屯南地遺址からは、1973年、7150片の甲骨出土しました。内訳は、卜甲110 片(刻辞があるもの60片)・卜骨7040片(刻辞があるもの4761片)・未加工の牛の肩胛骨106 片です。時代は、第二期を除く、一・三・四・五期にわたります。内容は、祭祀・天象・田猟・農事・征伐など多岐にわたります(『考古』1975-1)


郭振祿「小屯南地甲骨綜論」『考古学報』1997-1より転載

 鄭州二里岡遺址は、洛陽から東へ、偃師を過ぎ、山間を抜けて100 余qの(鄭州)から発見されました(『文物』1983-4)は、殷10代の中丁が遷都した場所で、安陽の殷墟より100 年以上も前の殷の都です。城壁は、東壁と南壁1700m・西壁1870m、全周7q、幅5m、高さ10mほどです。その外側に郭と呼ばれる同時期(『中原文物』1991)の、もう一重の城壁も発見されました。中央の城壁の中に支配者層の宮殿や居住区があります。城外に青銅器・骨器の工房などの労働者が住みました。郭で外敵から守り(『中原文物』1991)ました。刻画符号も見つかりました。大多数が焼成後に大口尊の口縁内面に刻されています(河南省文化局文物工作隊『鄭州二里岡』1959 科学出版社・河南省文化局文物工作隊「鄭州商代遺址的発掘」『考古学報』1957-1)。骨刻文字も発見されました。円形の骨面上に"又屮土羊乙貞従受十月"等の文字が刻されています。しかし、句を成しておらず、当時の習刻の文字か?と言われています。

骨刻文字
河南省文化局文物工作隊「鄭州商代遺址的発掘」『考古学報』1957-1より転載

 鄭州南関外遺址からは、刻画符号 9種が出土しました。大口陶尊の口沿内側(河南省博物館「鄭州南関外商代遺跡的発掘」『考古学報』1973-1)に刻されています。殷代中期とみられる文化層より出土しました。文字性を包含した内容を持つと言われ、古代文字から甲骨文字へと発展する過程の文字資料です。銘文をもった青銅器も見つかりました。図案化された図象文字(『文物』1973-7)が見られます。

李学勤『中国古代漢字学の第一歩』凱風社より転載

 磁県下七垣遺址は、河北省磁県西南のB河北岸、下七垣村西南台地から、1966年に発見されました。1974〜1975年河北省文化処孫徳海らが、面積960uを発掘しました。そして、商墓23座・戦国墓6 座・陶窖4 座・灰坑104 個・石器481件・土器304件・骨器354件・蚌器274件・角器34件・卜骨・銅鏃などが出土しました。刻画符号は、早商期・殷中期・殷晩期(河北省文物管理処「磁県下七垣遺址発掘報告」『考古学報』1979-2)の地層から発見されました。

第三層(早商)
第二層(商中期)
第一層(商晩期)
河北省文物管理処「磁県下七垣遺址発掘報告」『考古学報』1979-2より転載

 長清小屯遺址は、済南市の南西、長清県小屯から発見されました。殷晩期の青銅器が出土し、饕餮紋・雲雷紋が見られます。青銅の道具、兵器、車馬具も見つかり、"祖辛"の二字が刻されていました。部族のシンボルマーク、すなわち族記号と思われます。

INDEX