甲骨文研究諸家群像

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 王懿榮(1845−1900)は、山東省福山(現在の烟台市)の出身で、原籍は雲南省です。光緒6年(1880)の進士で、日清戦争の際は山東威海衛防衛に志願しました。1895年、国子祭酒(最高学府の長官・全国に1校しかない国立大学総長に当たる職)に任命されました。まもなく母の死により退官して服喪にあたり、喪があけて復帰しました。
 当時の大官僚は、幕客(個人的な秘書団)を持っていました。その幕客の一人が劉鶚(1857−1909)です。劉鶚は、江蘇省丹徒の出身で、字は鐵雲と称しました。西欧の、特に理科系の学問に興味をもち、数学や医学に親しみました。上海で医者を開業し、後、やめて実業家に転進しました。黄河決壊の際には、河南の巡撫(省長)の呉大徴(1835-1902)の幕客となり治水工事に努力しました。
 呉大徴は、日清戦争でぶざまな負け方をして批難を浴びましたが、もともと学問好きの文官で金石学を得意としました。
 王懿榮はマラリアの持病がありました。キニーネがなかった時代、中国ではマラリアの特効薬は龍骨でした。1899年(光緒25・明治32)、龍骨を見た劉鶚は、古代文字を感じ、王懿榮に告げ、二人で研究を始めました。そして、甲骨片を買いあさりました。当時、1斤6文銭の安物の薬剤だったといいます。范某から百余片、趙執斎から数百片を入手しました。
 1900年秋、義和団事件が勃発しました。8月、8か国連合軍が上陸し、北京が占領されました。西太后と政府要人は、いちはやく西安へ避難し、王懿榮を団練(義勇軍)大臣に任命しました。王懿榮は東便門を守備しましたが、朝廷は逃げ出し、守備軍に戦意はなく、潰走しました。王懿榮は、義として生きる事が出来ないとして、薬を飲みましたが死ねず、井戸に身を投げ自殺しました。後、清朝は屈服し、辛丑和約しました。
 劉鶚(鐵雲)は、王懿榮の甲骨(1000余片)を買い取りました。また、方薬雨から三百余片の范某の旧蔵品を入手しました。そして1899年、入手した五千余片より1600余片を選び拓墨上石し、『鐵雲亀蔵』を出版しました。
 劉鶚は、上海にいましたが、北京に戻り、ロシア軍の占領地域にある太倉(穀物倉)の米をロシア軍と交渉して、私財を投じて安価で払い下げを受け、難民に売って救済しました。1907年、連載小説『老残遊記』を上海で刊行し、中国近代文学史上の星と呼ばれました。この小説は、老残という人物の遍歴を通じ、官僚主義を糾弾したものです。そして、汚職官吏も清廉官吏も悪い、何故なら、清廉官吏は政府の公米に手をつけないではないか、としました。しかし8年後、公米を私売した罪で新彊に流罪となり、翌1909年、ウルムチで死亡しました。
 端方(1861−1911)は、湖北巡撫を勤めた折り、山東の骨董商から、1899年、龍骨を贈られました。当時、1字2両を払うとして、骨董商が買いあさりました。端方は、湖広総督に昇進し、ヨーロッパを視察、立憲政治による清国の蘇生をはかりました。後に、両江総督に昇進しましたが、1911年(辛亥革命の年)、鉄路督辨として四川で革命運動を鎮圧しようとして、逆に殺害されました。
 羅振玉(1866−1940)は、改良主義者として進歩的で、農学社・東文学社を開設しました。その一面、金石文の研究者として一家を成しました。そして、紫禁城内閣文庫の明清代公文書の焼却を防ぎ、敦煌から、持ち出されずに残った文物を北京に移送保存し、内藤湖南・狩野直喜・小川琢治らと調査しました。そして、劉鶚のコレクションを入手し、1910年、甲骨収集品の中から最も良いものを選び墨拓編纂して『殷商貞卜文字攷』を発表し、龍骨の産地が安陽県小屯と確認しました。
 1911年、弟の羅振常と妻の弟の范恒軒を安陽に派遣し、文物を購入しましたが、その年10月10日、辛亥革命が勃発し、京都に亡命しました。8年にわたります。その間、1912年『殷墟書契前編』、1914年12月『殷墟書契考釈』・『殷墟書契菁華』、1915年『鐵雲亀蔵之余』、1916年『殷墟書契後編』2巻・『殷墟古器物図録』・『殷墟書契待問編』、1927年『増訂殷墟書契考釈』3巻、1933年、『殷墟書契続編』6巻を出版しました。
 満州国建国に際し、溥儀の先生であった羅振玉も監察院長などの要職に就きました。
 王国維(1877−1927)は、字は静安、号は観堂で、浙江省海寧の人です。1898年、汪康年の「時務報」に勤務しました。羅振玉が上海に東方学校を設けるや来学し、翌年、浙江省から日本の物理学校に留学しました。
 1911年、辛亥革命のため羅振玉とともに京都に亡命しました。1916年、帰国後、上海聖明智大学・清華研究所の教授を勤めましたが、辮髪すら切らなかったといいます。
 1917年、『D寿堂所蔵殷墟文字考釈』・『殷卜辞中所見先公先王考』・『殷卜辞中所見先公先王続考』・『殷周制度論』・『三代地理小記』・『古史新証』・『殷礼徴文』を発表し、甲骨文の記事を解読・整理して、歴代の王名が『史記』殷本記の記述と一致することを実証するとともに、安陽の遺址が「殷墟」であることを証明しました。
 しかし、1927年、溥儀の北京追放で、前途を悲観して北京の昆明池に投身自殺しました。
 孫詒譲は、甲骨文字の研究に着手し、1904年、『契文挙例』2巻を出版しました。10章に分けて考証しています。林泰輔・河井メ廬らと商周遺文会を発足し、1921年(大正11)、『亀甲獣骨文字』2巻を出版しました。
 王襄は、字は綸閣、河北省天津の人です。武昌湖北国貨陳列館長を勤めました。華學奎とともに天津にあって古文学を研究し、1920年、『ウ室殷墟類纂』正編14巻を発表して、字書体に文字を分類し、検出に便利なようにしました。1925年、『ウ室殷墟徴文』12編及考釈12編を出版しました。
 郭沫若(1896-1979)は四川省楽山の人で、名は開貞、別に易坎人ともいい、鼎堂・開文と号しました。1914年、日本に官費留学して福岡医科大学(現九州大学医学部)を卒業(1923)しましたが、耳疾から医学を断念しました。
 留学中の1921年、文学を志して、郁達夫らと創造社を結成し、『創造季刊』を発刊しました。そして帰国後の1925年、ロマンティシズム文学を提唱して新文学運動に挺身しました。が、「五・三〇事件」を契機にマルクス主義に転じました。1926年、北伐軍に従軍しました。1927年、蒋介石の反共クーデタの白色テロを逃れ、千葉県市川市に亡命しました。この時、懸賞金がかかりました。彼は、唯物史観による中国の古代社会研究から、甲骨文に注目しました。
 1930年『卜辞中之古代社会』、1931年『甲骨文字研究』『殷周青銅器銘文研究』、1933年『卜辞通纂』『殷契余論』を出版しました。
 1937年7月末、蘆溝橋事件が起こり日本を脱出し、帰国しました。1938年には、武漢国民政府軍事委員会政治部第3庁長として抗日救国の宣伝活動に活躍しました。1949年、中華人民共和国成立に伴い、国務院副総理・中国科学院院長・中国文学芸術連合会主席に就任しました。
1951年、スターリン国際平和賞受賞。1966〜67年にかけ、文化大革命では一時自己批判もしましたが、その後要職にあって日中友好にも尽力しました。
 劉燿(=尹達)は、1939年、延安の藍家坪で『中国新石器時代』を出版しました。
 董作賓は1937年、南京で、商務印書館と『殷墟文字』甲編の出版契約が出来ていました。甲骨片を拓本にとり、写真にとって製版し、ゲラ校正をすませ、出版を待つだけでした。しかし、戦争が勃発しました。商務印書館の工場は上海にありました。結果、日本の爆撃・占領により出版不可能となります。8月中旬、南京が爆撃されました。殷墟出土の甲骨片は南京にありました。彼は、甲骨片を長沙・桂林・昆明へと移送しました。
 2年後(1939)、ふたたび商務印書館と契約し『殷墟文字』甲編を香港で印刷・出版を計画しました。香港はイギリスの植民地で、日本軍は手が出せなかったからです。しかし、1941年12月、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告し、香港は攻略されました。『殷墟文字』甲編は120 元で出版されたといいますが「幻の本」となってしまいました。
 1945年、『殷暦譜』14巻を出版し、1948年、シカゴ大学の客員教授として招請されました。そこで、『殷墟文字』甲編を出版しました。
 『殷墟文字』乙編は3冊に分けて出版しました。甲編に比べ系統に乱れが見られます。移送で壊れ、復元出来なかった甲骨片が少なくなかったといいます。
 彼は、『甲骨文断代研究例』で、甲骨文の製作年代を5つに分けました。甲骨文の時代的差異について、「おのおのの卜辞は貞人(亀卜に際して天に卜いの疑問を問いかける貞問を司る人)の署名をもととして、製作年代をおおよそ決定することができる」としています。
 第一期(武丁時代)は、「雄偉」で、字が大きく、大胆で力強いのが特徴です。甲骨大版の大字がその代表作品で、太く彫った筆画を、さらに朱で埋めて飾っています。神聖視された甲骨は卜いに使用された後も大切に保存され、長期に渡る保存に応じて美化されました。
 第二期(祖庚・祖甲時代)は、「謹飭」で、字は中ぐらいになり、注意深く、正確で、上品になります。祖庚・祖甲の兄弟は守成の賢主で、当時の卜師も規則を厳守して変わりませんでした。
 第三期(廩辛・庚丁時代)は、「頽靡」で、弱々しくなり、間違いが多くなります。書風が一転しました。前期の老書家が亡くなり、当時の書家の筆力は稚軟弱で、誤字も多くなります。
 第四期(武乙・文丁時代)は、「勁峭」で、力強さを取り戻し、活気が認められます。卜辞に署名がありませんが、この時代の新興書家は前期の弊を一洗して、作品は勁峭で生動し、時には放逸不羈の趣を呈することすらあります。
 第五期(帝乙・帝辛時代)は、「厳整」で、字が小さくなり配置も考慮され細部まで行き届き繊細・優雅です。各卜辞は段・行・字並びすべて正しく、ごく小字で「蠅の頭のような小楷」といった調子です。獣頭骨上の大字の刻辞は例外ですが、非常に厳粛で整った書風で書かれています。

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