およそ紀元前17世紀から紀元前11世紀、17世30王です。董作賓はB.C.1751からとしています。祭政一致の体制で、王すなわち法王(プリースト・キング)は、現人神です。自然神や祖先神を祭り、占卜を司る神職者でもあります。国家の首長として、現実の政治にあたりました。
文官・武官からなる各種の官職があり、婦・子・侯・伯・亜・男・田・方の八つの爵位がありました。軍隊を編成し、1師が3隊、各隊が100人で構成されています。刑罰の制度があり、刑法は厳しく、湯刑は300条の法がありました。労働人民に対する階級的圧力が非常に残酷でした。
領内の諸侯国は、商王の命令に服従し、土地の産物を貢物として献上しました。卜骨の裏側に献上した者の名前と枚数が刻されていました。また、兵隊を送って商王の作戦に従いました。特に西方と北方の辺境、土方・鬼方・羌方が商朝と戦闘しています。勢力範囲は、西は陝西省西部、南は長江以南、東北は遼寧省で、世界の大国だったと言えます。
1950年代早期、鄭州市二里崗の発掘により、青銅器文化であることが確認され、極く稀に文字や記号が鋳込まれているものも出土しました。土器は、専業者の手に成った製品で、幾何学紋・植物の巻鬢状の線です。また、その種の紋様をつけるために土製のスタンプを使用しました。土器には黄緑色の釉が全体にかけられ、胎土は黄灰色で高嶺土を使用しました。原始磁器(『考古』1965-10)と言えます。農耕具・武器は、石から青銅への過渡期を示しています。
農業が主産業で、奴隷が粟・黍・麦・稲を栽培しました。また、麻で布を織り、養蚕により絹を作りました。牧畜業は、豚・牛・羊・馬・鶏・犬などです。貴族は大量の家畜を抱え、祖先を祭る時には一度に1000頭も殺しました。
手工業は、青銅器鋳造(銅と錫の合金)の仕事場があり、青銅器の器型は、饕餮紋など仰韶文化・龍山文化の伝統を受け継いでいます。爐の温度は1000℃前後で、刀や斧・戈や矛などの武器・鼎や酒尊などの器物を鋳造しました。
鉄は天然の隠鉄を鍜えたもので、1972年以来、河北省藁城台西村・北京市郊外の商代遺址からも出土しています。
奴隷主は、気が向くままに奴隷を鞭打ち、殺害すらしました。逃亡を防ぐため、奴隷の額に焼印し、首に縄をかけ、夜は手枷をし、家畜同前の扱いでした。
暦法は、農業暦すなわち夏暦で、月の満ち欠け1回分を一か月とします。この夏暦は、夏から制定が始まったと伝承されています。
商は大体、夏暦を継承しました。1年を12か月、閏年を13か月としました。大の月は30日、小の月は29日で、1年は365.25日です。それを60干支を用いて表示しました。
? | 成湯の太子太丁が即位前に死亡。 | |
成湯13年? | 成湯が崩じ、太丁の弟外丙が即位。 | |
外丙3年 | 外丙(在位3年)が崩じ、弟の中壬が即位。 | |
中壬4年 | 中壬(在位4 年)が崩じ、伊尹が太丁の子の太甲(太宗・成湯の嫡長孫)を立てて帝とした。 | |
太甲は不良で暴虐、湯の法に従わなかった。 | ||
3年後 | 尹が桐宮(湯の埋葬地)に追放。 | |
伊尹が政務を執る。 | ||
3年後 | 太甲が大いに反省…大政奉還 | |
太甲12年? | 太甲が崩じ、子の沃丁が即位。 | |
伊尹が死亡し、殷の国都の亳(祖廟)に葬られる。 | ||
沃丁19年? | 沃丁が崩じ、弟の太庚が即位。 | |
太庚5年? | 太庚が崩じ、子の小甲が即位。 | |
小甲17年? | 小甲が崩じ、弟の雍己が即位…殷が衰えた。 | |
雍己12年? | 雍己が崩じ、弟の太戊(中宗)が即位。 | |
伊陟(伊尹の子)を用いて政務に努め復興、諸侯が来朝した。 | ||
太戊75年? | 太戊が崩じ、子の仲丁が即位。(河南省敖倉?)に遷都した。 | |
仲丁9年? | 仲丁が崩じ、弟の外壬が即位。 | |
外壬10年? | 外壬が崩じ、弟の河亶甲が即位…殷がまた衰えた。 | |
河亶甲9年? | 河亶甲が崩じ、子の祖乙が即位。 | |
巫賢(巫咸の子)を用い、復興…三興 | ||
祖乙19年? | 祖乙が崩じ、子の祖辛が即位。 | |
祖辛14年? | 祖辛が崩じ、弟の沃甲が即位。 | |
沃甲5年? | 沃甲が崩じ、兄祖辛の子の祖丁が即位。 | |
祖丁9年? | 祖丁が崩じ、沃甲の子の南庚が即位。 | |
南庚6年? | 南庚が崩じ、祖丁の子の陽甲が即位。 | |
仲丁以来の王位継承の乱のため、殷がまた衰えた。 | ||
5度の遷都(山東省・河南省内の黄河の両岸) | ||
陽甲4年? | 陽甲が崩じ、弟の盤庚が即位。 | |
B.C.1384
(董作賓説)
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政務に努め復興し、諸侯が来朝した。 19代目の盤庚が故居の殷(安陽県小屯)に遷都した…ここまでが殷前期。 その後12代、270余年間の都。 山東地区の薄姑・商奄が東方の重要な同盟国となる。 |
盤庚28年? | 盤庚が崩じ、弟の小辛が即位…殷がまた衰えた。 | |
小辛3年? | 小辛が崩じ、弟の小乙が即位。 | |
この頃、古公亶父(文王)が岐山の山麓に移り、国号を「周」とした。 | ||
小乙10年? | 小乙が崩じ、子の武丁が即位。 | |
賢人伝説を見いだして宰相とし、殷が復興した。 | ||
武丁59年? | 武丁が崩じ、子の祖庚が即位。 | |
祖庚11年? | 祖庚が崩じ、弟の祖甲が即位。淫乱のため、殷がまた衰えた。 | |
祖甲33年? | 祖甲が崩じ、子の廩辛が即位。 | |
廩辛4年? | 廩辛が崩じ、弟の康丁が即位。 | |
康丁8年? | 康丁が崩じ、子の武乙が即位。無道にして天神を戮辱した。 | |
武乙35年? | 武乙が雷にあたって崩じ、子の文丁が即位。 | |
文丁13年? | 文丁が崩じ、子の帝乙が即位…殷がますます衰えた。 | |
周の文王は岐を治め、仁政の名が天下に聞こえた。 | ||
帝乙9年? | 帝乙が崩じ、子の帝辛(紂)が即位。無道な行いが多く、諸侯が叛いた。 | |
この年、周の文王が崩じ、子の発(武王)が継いだ。 | ||
紂王52年? =周武王11年 |
殷と周が牧野で戦い、殷は敗れて滅亡。 |