黄帝と堯・舜・禹の伝説

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 司馬遷の『史記』「五帝本紀」末尾に「学者多く五帝を称えること尚し。然るに『尚書』は独り堯以来を載するのみ。而して百家の黄帝を言うや、其の文、雅馴(優雅で理にかなうこと)ならず。薦紳(地位のある人)先生(知識のある人)は之を言うを難かる…」(紀元前2世紀の司馬遷の時代ですら、黄帝についてはまともな人は口にしなかった。)とあります。
 しかし、「予、『春秋』『国語』を観るに、其の「五帝徳」(『孔子家語』)「帝繋姓」(『大戴礼』)を発明(ひらいてあきらかにする)すること章かなり。顧うに弟深く考えざるなり。其の表見する所、皆、虚ならず…」(『春秋』『国語』といった超一級の正経の書の中に「五帝徳」「帝繋姓」の記述が引用・参考されているのは明らかで、儒者が無視するのを非難している)として、「其の言の尤も雅なるものを択び、故らに著して本紀の書の首と為す」とあります。「三皇本紀」から始まる『史記』は司馬遷が書いたものでなく、唐の司馬貞が補った部分です。
 三皇とは、疱犧(伏犧)・女媧・(祝融)・神農(燧人・黄帝)あるいは天皇・地皇・人皇をさします。
 神農は農業の神で、鋤や鍬を作り、用法を教えました。医薬・易者の神でもあり、百草をなめて医薬をみつけ、八卦をかさねて六十四卦を作りました。また、音楽・商業の神でもあり、五弦の瑟を作り、人々に交易を教えました。
 伏犧と女媧は苗族の祖神(聞一多(1899-1946)『伏犧考』)とされます。また、7世紀前半滅亡の高昌国の貴族墓地からスタインが発掘した人面竜身図(彩色絹画)では、上半身は人間、下半身は蛇形で巻き付いている夫婦神となり、手に規矩(コンパスと定規)をもつ創造神でもあります。
 司馬貞の「三皇本紀」では、両神とも蛇身人首で、女媧は伏犧に代わり王位につき、伏犧時代の制度を改めず、ただ笙簧という楽器を作っただけとされます。共工が反乱したとき、祝融が平定し、神農へと移行します。
 伏犧は、5000年前頃、黄河の中から現れ出た一頭の龍馬の背に画かれていた奇妙な記号に啓示を得て、はじめて易の根本となった八卦を発明したとして、漢字の起源伝承とも関係します。
 女媧は、『淮南子』「覽冥訓」によると、天地が崩れたのを修理した「錬石補天」の神とされ、天地創造?の神ともされています。

黄帝の伝説

 4〜5000年前、黄河流域の氏族は、姜水の岸は姜・姫水の岸は姫といったように、居住していた土地の名を取って姓氏としました。また、動物の名や自然界の諸事象の名を取って、虎・豹・鳥・風・雲を姓氏としました。隣り合った数個の氏族は、互いに結び付いて部族を形成し、結果、氏族・部族の間に抗争発生しました。
 黄帝は華夏族の祖先で、4〜5000年前の黄河流域の一部族の首領です。阪泉の野で、神農氏の子孫と戦いました(『史記』)。五穀(黍・禝(粟)・菽(豆)・麦・稲)の栽培を奨励し、野獣を飼いならせました。
 堯鹿の野で、南方の蚩尤の部族(九黎)・西方の炎帝の部族と衝突(『史記』)しました。蚩尤は大霧(煙幕作戦)でしたが、黄帝は指南車(羅針盤)を使用しました。蚩尤は殺され、その部族は遠方に移りました。それが半坡人で、南方人の特徴をもつことから九黎?ともいわれます。炎帝の部族は敗れて黄帝の指導に服しました。
 黄河流域の多くの部族は、連合体を結成し、黄帝を部族連合の首領に推戴しました。黄帝は、ふだん堯鹿山(河北省堯鹿の東南)の麓に住んでいましたが、別の地方に移動することもありました。
 部下に左右二人の大監がいて、黄帝を助けて連合内の各部族を管理しました。黄帝は、木造家屋・舟車・衣服・暦法など多くの重大な発明をしました。また、妻の祖は、蚕を飼って絹を織ることを発明しました。
 臣の倉頡は、伏犧の八卦を一歩進め、鳥獣の足跡の形を絵に描いて、さまざまな事物を区別する符号(文字)を作ったとされます。

堯舜と禅譲

 黄帝ののち間もなく、黄河流域の平陽(山西省臨汾一帯)に部族連合の首領の堯が出現しました。堯は、黄帝の曽孫帝嚳の子の放勲で、嫡子は丹朱です。堯が年を取り、各部族の首領に後継者について相談しました。放斉は丹朱を、驩兜は共工を、四嶽は鯀を推薦しました。しかし、丹朱は頑凶、共工は人格的に、鯀は9年経っても治水ができず、共に後継者にふさわしくないとされました。 堯の「貴戚であろうと、疎遠の者であろうと、隠匿(隠遁者)であろうとかまわない。あらゆる層から推挙してほしい。」との要請で、20歳で孝心深く家庭を和す舜が推薦されました。
 舜は黄帝族であっても微賤の庶民出身です。父(瞽叟)は盲人で頑固、継母は誠意がなく口やかましく、異母弟は傲慢でした。舜は土地を耕し、魚を捕らえ、土器を製造するのが上手でした。彼の生産活動はたいへん成績がよく、人々の信頼を得ていました。
 堯は舜(30歳)を試しに使って、3年間試験を行いました。舜はよく人物を見分け、多くの才能ある人を推薦して仕事をやらせました。堯は舜(50歳・摂政)に大変満足して、部族連合の首領の地位を彼に譲りました。
 共工を幽陵に流して北狄に、驩兜を崇山に追放して南蛮に、三苗を三危に遷して西戎に、 鯀を羽山に熙(幽閉)して東夷に、それぞれ変えました。狄・蛮・戎・夷ははじめから辺境にいたのではなく、中原から追放されたのです。
 舜は堯の職を代行、堯の死(舜58歳)後、61歳で正式に部族連合の首領となりました。禅譲はこうして行われました。

禹の治水

 堯の晩年、黄河流域に大洪水発生し、平地は水に沈み、人々は高所に避難しました。生産や生活は困難となりました。堯は、各部族の首領に治水について相談し、鯀が推薦されました。鯀は9年間治水に当たりましたが、成績はあがらず洪水の災害は減りませんでした。
 舜が堯の職を代行するにおよび、鯀を殺し、鯀の子の禹を用いて治水の仕事を継続させました。禹は多くの人力を組織して、13年ののち治水に成功しました。禹は人々を指導して灌漑の水路を掘り、低い湿地帯に稲を植え、農産物も相当増加しました。
 舜が正式に部族連合の首領となると、禹はおもな助手になりました。後世の賛歌に、「元首は明かなるかな。股肱は良きかな。庶事は康らけきかな。」(元首はこのように賢明である。助手はこのように優良である。さればすべてのことがこのように人を平安にするのである)とあります。後世、禹の功績を記念して大禹と呼んでいます。
 舜が年を取ると、禹も禅譲の形式で部族連合の首領となりました。地域が広がり、銅や錫などの金属資源を産しました。これにより、労働用具が改良され、農業生産も向上しました。

原始社会の崩壊

 こうした労働用具の改良、農業生産の向上により、氏族・部族・部族連合の首領の地位を利用して、多くの産物を独り占めする、私有財産への動きが発生します。伝説には、堯はたいへん物持ちで、美しい衣服や楽器やたくさんの牛・羊を舜に贈ったとか、舜の家は粮食を貯蔵する倉庫を持っていた、などもあります。
 舜はかつて生産物の一部を別の地方に持っていって、他の氏族と交換しました。禹の家もたいへん金持ちで、父親の鯀は城を築いて自分の財産を護りました。禹の家はしだいに貴族になって行きます。
 氏族・部族・部族連合の中で、禹は次第に特別な地位を得ます。指導に服従しない者は懲罰をうけました。あるとき禹が各部族の首領を招集した時、防風氏が遅刻し殺されたといいます。
 禹は部族連合の首領となった後、皋陶を助手にしました。皋陶が死ぬと、益を助手にしました。
 禹が死んだ後、益が部族連合の首領の任務を継ぎました。しかし、禹の家族は永久に部族連合の管理権を持ち続けようとしました。禹の子の啓は一部の部族と氏族の首領の支持を勝ち取り、部族連合が分裂しました。
 益はやむなく職を離れ、啓が各部族を支配しました。父子相伝(世襲)の始まりです。 氏族共同体は瓦解し、原始社会(ユートピア)は崩壊、奴隷社会へと移行します。

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