紅山文化・富河文化

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紅山文化

 紅山文化は北方地区の新石器文化の中で重要な文化です。ここでいう北方地区とは、東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区および新彊維吾爾(ウイグル)自治区を指します。新中国建国以前、この地区の新石器時代の考古学的研究は表面調査採集が主で、わずかに沙鍋屯、昂昂渓、紅山後など数か所の発掘が行われていただけでした。新中国建国以後、富河溝門、南楊家営子、金亀山、蜘蛛山、水泉、白斯朗営子(四稜山、南台地)、新楽、新開流、小珠山、大口など十数か所の遺跡で考古学的な調査・発掘が行われました。
 紅山文化は1935年に発見されましたが、この彩陶と細石器が共存する新石器時代文化が長城以北に発見されたことが注意を引き、1954年に紅山文化と命名されました。
 新中国建国以後、紅山文化の分布範囲、内容、年代およびその文化の特徴などの面について研究が進められました。紅山文化の分布範囲はだいだい明らかになっていますが、北は昭烏達(ジョウタ)盟の烏爾吉木倫(ウルジムレン)河流域から、南は朝陽、凌源、河北省北部まで、東は哲里木(ジュリム)盟、錦川までのすべての範囲内から発見されています(「内蒙古自治区発見的細石器文化遺址」『考古学報』 1957-1・「昭烏達盟巴林左旗細石器文化遺址」『考古学報』 1959-2・「吉林奈曼旗大沁他拉新石器時代遺址調査」『文物』 1979-3)
 紅山文化の遺址は赤峰地区の英金河流域の小高い所に分布し、一般に川の水面との比高10〜40mの丘の上にあり、だいだい丘の南あるいは東斜面に位置し、文化層の堆積は約0.5〜2mと薄く、より新しい遺址に比べ遺址の面積が小さく分布が稀で、英金河両岸の長さ150qに達する範囲内に18か所しか発見されていません。
 紅山文化の土器には泥質陶と夾砂陶の2種類があり、泥質陶の多くは赤色で夾砂陶の多くは褐色です。文様には押圧文、箆描き文、貼付文、彩文があります。
 押圧文の多くは横「之」字形線文で、少量の縦「之」字形線文と「之」字形櫛目文があります。箆描き文は平行する直線が組をなすもので、ある種の櫛歯状工具を用いて上から下に引いたもののようです。横「之」字形線文と直線文は特徴的な文様で、おもに夾砂陶に施されますが、泥質陶に施される場合もあります。
 貼付文は線状のものと瘤状のものの2種があり、おもに夾砂陶の口縁部や胴部に施されます。彩文は彩色後に焼かれるもので、施されるのは泥質紅陶に限られ、黒色と紫色が用いられました。平行線文、平行斜線文、三角形文あるいは平行斜線入組三角形文、菱形文、鱗形文、渦文などの文様があります。
 この土器群には異なる胎土の土器があり、それぞれ器種や文様に特徴があり、夾砂褐陶には大口深腹罐、口縁が屈曲する罐、斜口罐がありますが、これらの罐の特徴は広口、小平底、胴張りで、ほとんどすべて網代底だということです。
 泥質陶には盆、鉢、罐、甕などがあります。鉢の多くは「紅頂碗」で、深いものと浅いものの2種類があり、さらに口縁の屈曲するものと、胴部の屈曲するものがあります。
 罐には小口双耳罐、長頸深腹罐、口縁が内湾する趣などがあります。小口深腹甕は非常に大型です。大型石器の中で特徴的なものに、土掘具(耜あるいは犁とも呼ばれる)、桂葉形の双孔石刀があります。


富河文化

 ジョウタ盟北部のウルジムレン河の考古学的調査(「昭烏達盟巴林左旗細石器文化遺」『考古学報』1959-2)を基礎とする「細石器文化」の研究をさらに進め、総称としての「細石器文化」を異なる考古学上の文化に区分するために、1960年と61年に考古学的な調査と試掘を実施して、若干の文化層の堆積を発見しました。これらの細石器を包含する遺址の様相には、紅山文化と類似するものも異なるものもあり、それらの性格、特徴、内容を把握するために、1962年にその中の富河溝門、金亀山および南楊家営子の3遺址を選んで発掘を実施しました(「内蒙古巴林左旗富河溝門遺址発掘簡報」『考古』1964-1)
 発掘の結果、富河溝門の遺存は土器、石器、骨器のいずれの面でも独自の特徴があり、この地域に分布する紅山文化とは明らかに異なることが判明しました。そこで、最初に発掘した遺址の名前を取って富河文化と仮称することにしました。その分布範囲はウルジムレン河流域に分布が密で、西喇木倫(シラムレン)河およびその北のジョウタ盟、ジュリム盟内のいずれからも発見されています(「昭烏達盟巴林左旗細石器文化遺」『考古学報』1959-2・「内蒙古巴林左旗富河溝門遺址発掘簡報」『考古』1964-1・「内蒙古自治区発現的細石器文化遺址」『考古学報』1957-1・「内蒙林西考古調査」『考古学報』1960-1)が、シラムレン河以南の両盟からはまだ発見されていません。
 富河文化の土器はすべて夾砂陶で、胎土はもろく焼成温度は低温です。土器の表面の色は褐色で、特に黄褐色が多く灰褐色がこれに次ぎます。土器の表面には、文様の有無を問わず、すべて磨きが施されています。主要な文様は押圧文で、最も多いのは横「之」字形櫛目文で、富河溝門遺跡の全土器片の5分の1を占めます。これに次ぐのが「之」字形線文(弧線文ともいう)ですが、数は少なく、縦横の区別があります。これに次ぐのが細長い貼付文で広口筒形罐の口縁部に施されています。このほかに箆描き文があり、少量の網代底があります。製法はすべて手製で、多くは紐づくりで、小さなものは手捏ねである。主要な器種は広口筒形罐で、ほかに鉢(碗)、杯および斜口罐などがあります。広口筒形罐の特徴は、広口・長胴で壁が比較的直線的で、口径と底径の比率が紅山文化の広口深腹罐のように大きくありません。
 富河文化の年代については、南楊家営子で富河文化の包含層が紅山文化の住居址を覆っているのが発見され、この地域で富河文化が紅山文化より新しいことが確定しました。富河文化の絶対年代は今のところ年代の測定値一つだけですが、標本は富河溝門遺址の第2期に属する30号住居址(H30)から得られた白樺の皮で、4735±110年、年輪補正年代は5300±145年です。
 富河文化の先住民は占トの習俗がありますが、シカ類動物の肩甲骨を用い灼くだけで鑽鑿を施していません。これは中国の占トの習俗を示すものとしては最も古いものです。
 富河文化と紅山文化はシラムレン河以北で分布が重なる地域があり、巴林左旗南楊家営子では層位的に紅山文化より遅れることが判明し、両者の新旧関係は明らかとなっています。同時に、両者とも細石器、夾砂大口罐を伴い、土器の文様として富河文化で大量に用いられる「之」字形櫛目文が紅山文化の土器でも用いられ、また紅山文化で大量に用いられる「之」字形線文が富河文化で少量用いられることなど、類似する点があるばかりでなく、当然それらの文様は形態の上でもおのおのの特徴を備えています。これらの両好の類似から両者が関連するとみるのは当然です。しかし、この関連が両者の継承関係を反映するのかどうかは今後の研究を待たねばなりません(「遼河流域新石器時代的考古発現与認識」『中国考古学会第一次年会論文集』1980 文物出版社)

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