大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

INDEX

 四川省巫山大渓遺址は、かつて1925・26年の最初の調査中に若干の石器と土器片が採集され、魚骨を包含する地層堆積と人骨遺骸されていましたが、そのままになっていました。解放後、1959年と75年の大渓の3度にわたる発掘(「四川省巫山大渓新石器時代遺址発掘記略」『文物』 1961-11 文物出版社)では、おもに200基余りの墓を調査し、新種の文化遺存を明らかに示しました。1960年の長江西陵峡の考古学的調査と試掘中(「長江西陵峡考古調査与試掘」『考古』 1961-5 科学出版社)に、宣昌楊家湾・四渡河・秭帰朝天嘴などの地点で、いずれも大渓と同類の遺址を発見しました。おおよそ1972年以降、しだいにこの種の遺存を大渓文化と呼称するようになりました。
 大渓文化の遺址には、四川省巫山大渓・巫山県城・湖北省秭帰朝天嘴・宣昌楊家湾・清水灘(「河南淅川下王崗遺址発掘」『文物』 1972-10 文物出版社)・中堡島・宣都紅花套・古老背・枝江関廟山・江陵毛塚山(「江陵毛塚山発掘記」『考古』 1977-8 科学出版社)・蔡家台下層・松滋桂花樹・公安王家崗・湖南省澧県三元宮・丁家崗・安郷湯家崗(「三十年来湖南文物考古工作」『文物考古工作三十年』 1979 文物出版社)などがあります。当初、その分布はわずかに四川省東部と湖北省西部と思われていましたが、湖北省中部に拡大し、南限は既に湖南省北部の洞庭湖に達しています。
 家屋は、四周の壁はすべて立柱の間に竹片や竹竿を編んだり刺したりして、内と外に泥を塗って竹編みの泥壁を作っています。
 土器は紅陶が主で、一般にやや橙紅色を帯びています。晩期になるほど紅陶が減少します。次で灰陶・黒陶で、ごく少量の白陶と薄手の橙黄陶があります。いずれも手びねりで成形され、焼成温度は比較的低く、紅花套では600〜700℃、大渓では750〜810℃、三元宮では880℃です。器表は多くは無文で研磨されています。なお、主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
 大渓文化と中期以降の仰韶文化とは接触し、相互に影響を与えました。2つの文化はいずれも紅陶を主とし、盆・鉢・口すぼまりの甕・小口長頸罐など、形態の近似するものがあります。