北辛文化(B.C.5300〜B.C.4400)

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 北辛遺跡は、山東省滕県東南25qの北辛の大汶口文化遺跡の下層から、1964年に中国社会科学院考古研究所山東隊・滕県博物館が発見しました。面積5万uにおよびます。そして1978〜79年に2583uが発掘されました。
 遺物包含層は厚さが1.5m以上あり、かなり長い間、この場所に定住生活を営んでいたことが解ります。鍬で耕す原始的な農業、豚の飼育、狩猟、木の実の採集の生活でした。
 土器は、砂混じりの土(夾砂)で器胎は厚く、焼成温度が比較的低い黄褐陶と、きめの細かい土(泥質)で胎質も細かく、焼成温度が比較的高い紅陶が主です。少量ながら黒陶・灰陶も見られ、胴に一種の線状の指押し文・篦描文・爪形文が見られます。鼎が最も多く、釜・器台・鉢・胴が深く底が丸い罐などで、底が丸いか尖ったものが大半です。
 石器は打製の敲石・刮削器(スクレーパー)と、磨製の石鏟・石斧・石鎌・石鑿・磨臼で、粉食を示しています。また、骨角器(中国社会科学院考古研究所山東隊・山東省滕県博物館「山東滕県古遺跡調査簡報」『考古』1980-1・「長江下游新石器時代文化若干問題的探析」『文物』1978-4)も出土しました。
 残器底部と腹部の陶片も出土しました。この陶片には、それぞれ同種の""型の鳥類の足跡に酷似した刻画符号が刻されています。この刻画符号について、「泥質灰陶器底(H307:52)・泥質紅陶腹片(H1003:11)のそれぞれに一個の刻画符号を発見、これは焼陶以前の刻画である(中国社会科学院考古研究所山東隊・山東省滕県博物館「山東滕県北辛遺址発掘報告」『考古学報』1984-2)」としています。


中国社会科学院考古研究所山東隊・山東省滕県博物館「山東滕県北辛遺址発掘報告」『考古学報』1984-2より転載

 万樹瀛氏は(「陳列簡介」『滕州博物館』滕州博物館)、許慎『説文』序に「黄帝之史官倉頡、見鳥獣蹏迒之迹、知分理之可相別異也、初造書契」(黄帝の史官倉頡が、鳥獣の足跡を見て文字を考え出し、それまで縄の結び目による符号によっていたのを改めた)とあるのに一致し、半坡遺址・姜寨遺址よりも4〜500 年もさかのぼるとし、漢字の起源であるとしています。
 しかし、1996年8月訪館時、滕州博物館館長力軍女史は、「これは焼陶以後の刻画である」と話していました。また、その後、1982年に発掘された老官台文化の白家村遺址からこれに近似する刻画紋・彩陶花紋が出土しました。年代的には北辛文化より古いことから、この陶片をもって漢字の起源とは言えないと思います。
 漢字の起源に関する諸説には、エジプト起源説(中国古代文字とエジプト文字の類似を論じる)、バビロニア起源説(八卦とバビロニアの楔形文字とを比較)、シュメル文字との同源説等があります。
 また近年、山東龍山文化に属する「丁公村遺址出土刻字陶片」や、青蓮崗文化に属する「龍虬庄遺址出土刻字陶片」などが出土しました。「丁公村遺址出土刻字陶片」は、馮時氏(「山東丁公龍山時代文字解読」『考古』1994-1)によれば、古彝文だとしています。とかく古文字は甲骨文を基準に考察しますが、漢字(=甲骨文)以外に、いろいろな部族の文字があったと考えられます。

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