<褚遂良>

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 褚遂良(696〜658)は、あざなを登善(トウゼン)といい杭州銭塘(セントウ 浙江省杭県)の人です。初唐の3大家の中では最も後輩で、歐陽詢・虞世南がすでに名を成し、ともに60歳前後で唐に入ったのに比べ、彼は当時20歳を過ぎたばかりの青年でした。
 曽祖父の褚蒙は梁の太子中書舎人、祖父の褚玠は陳の秘書監、ともに著名な人物でした。父の褚亮は、《褚亮碑》でも述べましたが、陳の禎明の初め(587頃)尚書殿中侍郎を勤めました。隋に入って、大業年間に太常博士を授けられましたが、上奏して宗廟を改置することに反対したため、西海軍司戸に左遷されました。薛挙が建国すると黄門侍郎を授かりました。太宗は早くから褚亮の名声を聞いていましたので、薛挙が破れると、礼を厚くして迎え入れました。
 褚遂良は、大業年間の末、父に従って隴右におり、薛挙に通事舎人を授けられました。薛挙が破れると、父と共に唐に入り、秦州都督府鎧曹参軍を授けられました。彼は、博く文史に知識があり、もっとも隷書(今の楷書)に巧みでした。そこで父の友人の歐陽詢は非常に彼を大切にしました。
 『貞観政要』(10巻40編。唐の呉兢(ゴキョウ 670〜749)の著。成立年代不詳。唐の太宗とその臣下たちとの間の政治上の論議を集めた書)によれば、貞観10年(636)、太宗は侍中の魏徴に、「虞世南が死んでから、共に書を語る者がなくなった」と嘆かれると、魏徴が、「褚遂良は筆を下すこと遒勁(筆勢が強く力がこもっている)で、誠に良く王逸少(羲之)の体を得ております」と答えたので、即日召されて侍書としました。そして秘書郎から起居郎に遷されました。
 貞観13年(639)4月、太宗は御府の費用を出して、王羲之の書を購入させました。全国から争って古書が収まりましたが、その真偽を弁ずる者がいませんでした。遂良は詳細にその出所を論じ、一つも誤りませんでした。
 貞観15年(641)、諌議大夫に遷され起居郎と兼ね司りました。貞観18年(644)9月には黄門侍郎として朝政に参与しました。彼は、しばしば諌奏することがありましたが、太宗の信任が厚くほとんどその諌言は採用されました。
 同じく『貞観政要』によれば、ある時、太宗が遂良に向かい、「お前は起居注(天子の日常の記録)に、一体何を書いているのだ。見ても良いものか」と尋ねた。すると遂良は、「これは人君の言動をありのままに書くもの。善も悪もみな書いて戒めとするものです。それは人君が非法をしないことを願うためです。ですから、お見せすることはできません」と答えると、太宗はさらに尋ねた。「朕に不善があれば、お前はそれを詳しく記録するのか」「わたしはそれが起居注の役目と心得ております。決して厳しいわけではありません。正しく記録することに努めているだけです」すると太宗は苦笑しながら、「これからは、せいぜいお前に詳しく書かれないようにしよう」と言った、とあります。
 太宗・高宗には名臣・良将と呼ばれる多くの部下が仕えましたが、褚遂良ほど清潔で気骨のある家臣はいなかった、と言われています。
 貞観20年(646)銀青光禄大夫を加授されましたが、翌年、父の喪に服しました。貞観22年(648)、再び旧識に復し、さらに中書令を拝しました。
 その翌年、太宗が病に伏したとき、長孫無忌と褚遂良を病室に招き後事を託し、太子に向かって、「無忌と遂良あれば、国家のことは、憂える心配はない」と言われました。
 高宗が即位するに及んで、尚書右僕射となり、河南県公に封ぜられ、褚河南とも称されました。永徽元年(650)、河南郡公に進められましたが、11月、劾奏せられ、同州刺史に左遷されました。
 永徽3年(652)1月、召されて吏部尚書(リブショウショ)・同中書門下三品(ドウチュウショモンカサンピン)・監修国史(カンシュウコクシ)を拝し、光禄大夫を加えられ、また太子賓客を兼ねました。永徽4年3月、張行成(チョウコウセイ)に代わって尚書右僕射・同中書門下三品となりました。
 永徽6年(655)9月、高宗は王皇后を廃し武昭儀(武則天)を立てて皇后にしようとしました。遂良はこれに反対し、「臣、今陛下に忤(サカ)ろう。罪、死に価す」と言い、笏(コツ 官位のある人が礼装したときに手に持ち、また帯にはさみ、君命などを備忘用に記した板。日本ではシャクとよんだ)を殿の階(キザハシ)に置き、叩頭して血を流し、「陛下に笏を還し、田里に放ち帰らしめんことを乞う」とまで極言しました。高宗は大いに怒って侍臣に命じて褚遂良を引き出させました。
 しかし翌日、李勣に、「武昭儀を冊立(サクリツ 勅命によって、皇太子・皇后などを正式に定めること)することは、遂良が頑固に反対するので何ともならない。遂良は先帝の遺詔を受けた大臣だし、どうしたらよかろうか」と相談された。李勣が、「それは陛下の家事ですから、他の者に聞くことはありません」と答えたので、武昭儀を立てて皇后とされ、遂良は潭州都督に左遷されました。顕慶2年(657)3月、桂州都督に転じ、さらに8月愛州(現在のベトナム北部)刺史に左遷され、翌顕慶3年、63歳で没しました。
 褚遂良は父の褚亮とともに太宗に愛重され、諌議大夫となってはしばしば諌奏して職責を尽くし、ついに後事の付託さえ受けました。高宗の信任を得ることも厚く、唐朝に重きをなしましたが、武昭儀冊立を諫(イマシ)めて、最晩年は不遇の中に過ごしました。
 武昭儀冊立の結果は史実の示す通りで、遂良の憂いた通りとなりました。彼の意思の強さ、自説を曲げない忠誠は、父の褚亮より受け継ぎ、更に甚だしいものがありました。
雁塔聖教序碑 (大雁塔にて)
雁塔聖教序碑 (1978年9月18日撮影)
 張懐瓘の『書断』に、「少年時代は虞世南に私淑し、後には王羲之を祖述(先人の学説を受けつぎ、発展させること)した。真書(楷書)は甚だ媚趣を得、欧・虞も頭を下げる。しかし行草は二公に劣る、また史陵を師としたこともある」と言っています。
 これ以後の批評家は多くこれに基づいて、虞世南の系統、すなわち南派に属させて論じています。清朝に至って、まず楊賓>(ヨウヒン)が『楊大瓢偶筆』で、「登善(遂良〉の《孟法師碑》を何章漢(カショウカン)進士の家で見た。小欧(歐陽通)に近いので、欧と題箋している。登善の書は、実は欧より出たのを知らぬからだ」と言い、なお、「登善の本領は全く痩勁にあって、その極に媚趣が生じたのである。媚趣だけをとりあげるのは間違っている」と言っています。続いて阮元は『南北書派論』を著して、明らかに遂良を北派と断じました。
 褚亮が歐陽詢と親交があり、したがって家学を受けた遂良が歐陽詢の影響をより多く受けたであろうことも想像され、《孟法師碑》などには明らかにそれが見て取れます。
 しかし晩年はこれらの影響を脱して、変化多端、清俊超妙をもって称され、彼独自の境地に達しました。歐陽詢・虞世南は陳隋時代にその活動のポイントを置いていますが、褚遂良は唐朝の風気の中で育ちました。その意味で、褚遂良は初唐を代表する書家と言えます。
 褚遂良の作品と認められるものには、《伊闕仏龕碑(イケツブツガンヒ)》貞観15年(641)・《孟法師碑(モウホウシヒ)》貞観16年(642)・《房玄齢碑》永徽3年(652)・《雁塔聖教序碑》《雁塔聖教序記碑》永徽4年(653)の4点で、他に、《枯樹賦》>貞観4年(630)・《五言帝京篇》貞観19年(645)・《独弧延寿碑》貞観19年(645)・《裴藝碑》貞観23年(649)・《草陰符経》貞観6年(632)・《房玄齢神道弾》・《倪寛賛》・《小字陰符経》永徽5年(654)・《霊宝度人経》・《賜観帖》・《同州聖教序碑》龍朔3年(663)・《随清娯墓誌銘》・《塔甎》・《太宗哀冊》晩年・《行書千字文》永徽4年(653)・《楷書手字文》などが世に伝わっていますが、真偽の程はすこぶる疑問です。


伊闕仏龕碑 (洛陽・龍門にて)

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