<歐陽詢>

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 歐陽詢は、王羲之を倣って、のち険勁さがそれ以上になり、「歐陽の体」として一家を成した人です。詢は陳(チン)の永定元年(557)に生れた唐代初期の官僚・書家で、字(アザナ)は信本(シンポン)、潭州臨湘(湖南省長沙市)の出身で、『新唐書』『旧唐書』とも儒林伝に列しています。
 彼の祖父歐陽頠(ギ)は陳の大司空を勤めました。父の紇(コツ)は、陳の広州刺史(行政監察官)でしたが、唐の姚思廉(ヨウシレン)編『陳書』や『資治通鑑』によれば、謀反に関与して死刑となりました。詢は年幼(当時12歳と推定されます)であったということで罪を免れたと、宋(ソウ)の歐陽脩>(オウヨウシュウ 1007〜72)らが編した『唐書』にあります。
 父の死後の詢については、『新唐書』に「江総、故人の子なるを以て私にこれを養う」とあり、詢は父の友人の江総(コウソウ 519〜594)に養育されました。江総は、陳の官職は僕射、隋では尚書令・開府儀同三司を勤めました。
 詢の聡明さは人並み優れ、読書するごとに数行を同時に理解し、ついには博く経書や史書に通じました。そして魏徴(ギチョウ)・長孫無忌(チョウソンムキ)らが編した『隋書』文学伝によれば、開皇9年(589)、隋の文帝楊堅が陳を滅ぼすと、江総に従って隋に下り、煬帝に仕えて太常博士(タイジョウハクシ 儀礼を司る官)を勤めました。
 その後、武徳2年(624)閏2月、竇建徳は宇文化及を捕らえ殺害し、隋の黄門侍郎裴矩(ハイキョ)を右僕射、虞世南を黄門侍郎、歐陽詢を太常卿としました。『旧唐書』によれば、武徳2年、勅命により『藝文類聚(ゲイモンルイジュウ)』10O巻を裴矩らと共撰しています。
 詢は隋に在る時から李淵と親交が深く、密接な関係にありました。天下が唐の世になり、高祖李淵が即位すると、詢は唐に仕えて給事中(皇帝の側近官)に抜擢されました。
 ついで貞観元年(627)、太宗が即位すると弘文館(コウブンカン)が開かれ、虞世南と共に弘文館学士(教官)に任ぜられ、貴族の子弟に楷法を教えました。また、『旧唐書』によれば同年、太子率更令(タイシソツコウレイ 皇太子のお守り役)となり、渤海男(ボクカイダン)に封ぜられました。
 貞観11年(637)には銀青光禄大夫を拝し、貞観15年(641)、85歳で没しました。詢は虞世南・褚遂良と共に、初唐の三大家に数えられています。
唐・韓滉「文苑図巻」 (『墨』より)
 詢の撰著としては、元の脱脱(ダツダツ)らが編『宋史』芸文志に『麟角』120巻とあるのを始め、『用筆論』『八訣』などがあります。これらによっても、詢は単に書家にとどまらず、学問識見が優れ、また当時の朝廷に重きをなした人物であったことが窺えます。
 『旧唐書』の本伝に、「詢、初め王羲之の書を学び、後更に漸くその体を変じ、筆力険勁、一時の絶たり。人その尺牘(セキドク 手紙)の文字を得れば、みな以て模範とせり」とあります。また楷書と行書とは、王獻之の書法が見られるとも言われています。
 唐の張懐瓘『書断』によれば、妙品の部に隷書(楷書)、行書、飛白、草書をあげ、能品の部には、大篆、小篆、章草をあげて、「篆書体がとりわけ精妙で、飛白も世に冠絶しており、古人より峻抜である」と言っていますが、今は伝わっていません。
 また、詢は「筋骨が外に露われている」ということで、「猛将が深く入る」にたとえられ、虞世南は「内に剛柔を含む」ということで、「行人(使者)の妙選された」のにたとえられ、褚遂良は「鉛華の綽約(シャクヤク)たるさま」ということで、「美女の嬋娟(センケン)たるさま」にたとえられています。
 詢は八体すべてに巧みでした。後世楷書のみが称揚されたのに比べ、このことは見過ごされがちです。
 彼の書は、王羲之の書風を学び南朝に渕源すると思わせる面がありますが、後、険勁な風を加え、峻抜とか剛勤とか評されています。この険勁の風がどこから出たのか諸説があります。
 竇蒙(トウモウ)の『述書賦』には「北斉の劉a(リュウビン)の書を学んだ」とあり、『新唐書』には「晋の索靖(サクセイ)の碑を見て感激し三晩その前に止まった」とあります。これらの話から詢は北派(北朝)の書に心を寄せていたとする説があります。いずれにしろ、歐陽詢が王羲之・獻之(二王)の外、漢魏以来の北碑から相当の力を得たことは認められます。
 その書風は、南北を混一して別に一家を成したもので、虞世南が専ら二王を主として南派の書を善くしたのとは、対蹠的立場にあったものと思われます。
 また、彼の容貌はたいそう醜かったとあります。『旧唐書』許敬宗伝には、貞観10年に文徳皇后が崩ぜられた際、詢の喪服姿があまりに醜かったので、許敬宗は思わず笑ってしまった。それが御史(オンシ)の弾劾に遭い左還されたとあります。
 彼の境遇の険しさが厳しさを求め、容貌の醜さが逆に整った美を追及させて険勁の風を生み出したとする説もあります。しかし、南朝にも峻抜な書風は感じられ、一概に北朝の書から出ているとは言えません。
 彼の書の根底は晋時代の書法にあります。詢は、隋唐の間に洗練されつつあった書風の上に、新しい時代の精神を盛り上げ、清らかな風神と秀でた骨格に類いのない美しい新書風を造り上げました。

徐州都督房彦謙碑
 上の写真は歐陽詢75歳(貞観5年(631)3月)の書作の《房彦謙碑》です。曲阜から青島に向かう途中、民家の裏の田んぼの中に塚があり、その前に無造作に建っていました。保存状態はことのほか良かったのですが、風雨にさらされ、ほこりに塗れ、痛々しく感じました。とはいえ、碑林の拓を採られ黒光りしている諸碑を思うと、あるいはこのままの方が良いのかとも思いました。

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