<請門神>

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 中国では「請門神」といって春節(旧正月)に魔除けとしてカラー刷りされた門神像を門扉の上の両側に張る民間信仰があります。その左側のモデルが尉遲敬徳、右側が秦叔宝(シンシュクホウ)で、良く似たデザインて゛すが、敬徳は鄄(カン 昔の兵器の一種で、刃がなくて竹刀(シナイ)のような形をしている)を握り、叔宝は剣を持ち、ともに厳(イカ)めしく武装しています。これは、魏徴が龍王の首を切ったとき、その死霊にたたられて苦しんだ太宗を、この二人の勇将が守護したという伝説にもとづいています。
尉遲敬徳(左)と秦叔宝(右)
 本来中国では3000余年も前の殷(中国では「商」と呼ぶ)に、天子の行う5つの祭祀のうちに門を祀る風俗がありました。しかし殷代の門神がどのような姿であったのかは未だ知られていません。
 考証によれば、最初に門を守ったのは犬であったとされます。中国では6000年前から犬が飼われ、主に家の守りに使われました。江蘇省大墩子の新石器時代の古墳から、6000年前の陶製の家が出土しましたが、その門の両脇の壁に犬の姿が刻まれていました。
 したがって殷代になっても、武装した奴隷や犬を殉葬し、死霊を守らせていました。しかし犬は、主人に対して忠誠を尽くす動物ですが、家や墓の守りに使うには、猛虎の威厳に及びません。
 そこで、3000年昔の周代から虎の威力を借りるようになりました。『周礼』(天官・師氏 シュウライ 周の周公の作といわれるが、春秋時代の法制史家が考えた典型的な国家の官制(およびそれに付随する事物)を説明して、それを周代にことよせたもの。後世の律令の書の原形と考えられる)には、当時、天子が群臣を招集して国政を議するところを虎門と呼ぶ、虎の絵を描いて皇帝の威風を示す、とあります。
 1954年、四川省成都の戦国時代の遺址から陶製の墓守りの虎が出土しました。古代においては、現世・来世ともに虎の威力を信じていたことは、虎の絵や陶製の虎によって裏付けることができます。
 この習俗は、漢代に至って次第に盛んになります。後漢の応劭(オウショウ)は、『風俗通義』の中で、人びとは、虎は「鬼魅(キビ・妖怪)を食う」として、大晦日に「桃の枝で人形を作り、その手に葦の縄を持たせ、門に虎を描く」もし病気になれば「虎の皮を焼いて飲む、その爪を腰につけておくと魔除けにもなる」と書いています。
河南省漢墓出土の画像石
神茶と鬱塁
 発掘された各地の漢墓から、墓守りの虎を刻んだ画像石が多く出土しています。後に、虎の絵を邪気ばらいに使う地方がますます多くなります。関所には「虎頭関」が設けられ、牢獄は「虎頭牢」と呼ばれました。
 この習俗は今も残っています。農村ではよく虎の頭を彫ったものを門の上方に掛けたり、子供に虎の頭をかたどった帽子をかぶせて安泰を祈ります。また、宮殿・官邸・寺院・民家の正面の両脇に、一対の石造りの獅子を据えているのがよく目に付きます。
  北京の盧溝橋の欄干には、さまざまな姿をした石造りの獅子が数え切れないほど並んでいます。ところが、獅子は中国にはいませんでした。漢代、シルクロードが開かれて後、西域で飼い慣らされた獅子を引いてきて貢物とした者は、中原王朝から手厚い褒賞を受けました。唐代には、獅子1頭献上すれば、帛(絹織物)100匹の票品をもらえたといいます。踊りなどの芸ができる獅子は、さらに価値がありました。
 しかし獅子や虎などの猛獣でも、それを捕らえる猟師の人間にはかなわないことから、魔除けとしての獅子や虎も「霊験あらたか」ではなくり、武将を門神とするようになりました。
陜西省鳳翔県の門神木版画
 武将とは、周の武王を助けて紂を討った姜太公(キョウタイコウ 太公望)、身を捨てて秦王を刺した荊軻(ケイカ)、唐の秦瓊(シンケイ)・尉遲敬徳・鍾旭が、それぞれ門神として登場しました。
 かくして『山海経』(18巻。著者・成立年代ともに不明。神話を多くふくんだ中国古代の地理書。古代中国の自然観、中国の神話を研究する上に貴重な書)や『風俗通義』などに見える神荼(シント)と鬱塁(ウツルイ)の二神の説話から、桃が邪気を払い百鬼をおさえる威力をもつと信ぜられ、歳末に「桃人」や「桃木」を立て、これに葦(アシ)の縄をかけ、虎を門に描く風習が起こり、さらにそれが一対の板に龍虎・桃柳などの絵を書いて門柱に掛ける「桃符」となりました。
 これを吉祥文字に変えたのが「春聯(シュンレン)」です。二神像を描いて張ったのが「門神」で、神荼は葦、鬱塁は桃が神格化したものと思われます。

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