昭陵六駿碑

 碑は醴泉県城(礼泉県駿馬郷)の唐太宗廟内に、北宋哲宗の元祐4年(1089)、游師雄が立て、彼が題しています。
 游師雄は武功(陝西省武功県)の人で、あざなは景叔です。元祐の時、軍器監を拝し、直龍図閣に遷じましたが、陝州に赴く途中て亡くなりました。彼は古跡を重視し、特に関中一帯の古跡の保護維修に熱心でした。
 太宗は貞観10年(636)に九嵕山すなわち渭水の支流の水の上流、醴泉県石鼓趙村の北を東西に走る北嶺山脈の南に位置する高さ約1500mの山頂の昭陵に文徳皇后を葬りました。
 九嵕山の山頂から眺望すると、西に梁山、東に嵯峨山などがそびえ、前面には漢中平野を隔てて遠く太白終南の諸嶺と相対し、漢中平野の中央を渭水が東流しています。太宗は、この山に自らの陵墓も造営しようとして、貞観11年から寿陵の造営をはじめ、貞観23年8月、太宗をここに葬るときまでに完成し、また太宗の昭陵にまつる六駿の石彫もこのころまでに出来上がったと言われています。
 太宗は、寿陵をここに造営したときに家臣の陪葬を許したので、九嵕山の山上から山下にわたって陪葬者、すなわち7王、21公主、8妃嬪、13宰相、64功臣、および三品以下53、あわせて166人の、あるいは200を越えるという墓が、武人は左、文人は右に、公主妃嬪は山上に、功臣将相は山下にと配置され、その規模の盛大さは古今無比です。しかしその後多くの碑石が散佚し、なかには墳丘の形を失ったものさえあります。明末に趙崡がここを歴訪したとき、現存する碑石は25を数えたといいますが、現在では墓の的確に識別できるものは20もないそうです。
 文徳皇后の陵墓は、葬費を節約するという皇后みずからの遺言によって、自然の山である九嵕山の山頂に造営しましたが、太宗の寿陵はこれと違い、山頂に玄武門や寝殿を造営しました。

    
玄武門残壁 (『長安史蹟の研究』より)             朱雀門跡(1999年7月撮影)  

 しかし378もあったという陵園内の建造物は唐時代末には壊され、喪失してしまいました。現在、真南の山下の朱雀門の門闕と献殿、山の北側の玄武門や祭壇などの跡は残っています。祭壇内には外蛮夷秋の14国の君長の石刻像がありましたが、現在は像の基座のみがようやくのこと当時の面形をとどめています。
 また陵墓に通じる廊下に(初代高祖の陵墓である献陵の前に一対の石虎の像が置かれたように)、左右3石ずつ、愛馬6頭の石彫を配しました。
 この6頭は、太宗が建国の大業を成し遂げるまでに、幾多の困難辛苦を共にした馬で、すなわち東側に右向きの特勒驃(トクロウヒョウ)・青騅(セイスイ)・什伐赤(ジュウバツセキ)、西側に左向きの颯露紫(サツロシ)・拳毛(ケンモウカ)・白蹄烏(ハクテイウ)を2列に配置しました。これを後世「昭陵六駿」と呼んでいます。
 この昭陵六駿のレリーフに、太宗自ら賛を作り、歐陽詢に命じてそれを書かせ、座右に刻したと伝えられますが、現在では刻銘はすべて失われてしまっています。

      
拳毛『長安史蹟の研究』より)/(碑林・石刻芸術室 レプリカ)

 また、高宗の時、殷仲容に詔して刻させたという座石も、宋代にはあったと伝わりますが、今ではなくなってしまいました。
 が、幸いなことに6駿の石刻は、西安碑林石刻芸術室の中央に、右側に颯露紫・挙毛・白蹄烏、左側に特勒驃・青騅・什伐赤が展示されています。
 しかし、石刻芸術室の颯露紫と拳毛カの2石はレプリカで、原石はかつてアメリカに運びさられ、現在ではフィラデルフィアのペンシルヴァニア大学博物館に収蔵されています。