乙速孤行儼碑

 乙速孤行儼は、太原の人で官は右武衛将軍に至り、上柱国に封ぜられました。
 景龍元年(707)12月、72歳で亡くなり、翌年の2月九嵕山北の叱干村に埋葬され、碑は開元13年(725)に墓前に立てられました。
 劉憲が撰文し、白義晊が書し、徐文礼が刻したとあります。
 碑文は隷書で33行、行67字。碑額も隷書陰文で「唐故右武衛将軍乙速孤公碑」とあります。
 王昶の『金石萃編』には「碑高9尺2寸広3尺9寸30行行67字隷書、額題右武衛将軍乙速孤府君12字書、在醴泉県叱干村」とありますが、詳細は掲載されておらず、あきらかに誤りです。
 磨滅が激しく良くは判りませんが、書風には八分書の専門家といわれた玄宗の影響が見られます。
 白義晊は玄宗時に活躍した書家です。趙崡は挑抜といっていますが、結体が偏平で右上がりの横面が見られます。右に向かって広がっているようにも見えますが、むしろ横面の角度が一定していないように思われます。とはいえ、当時流行した分隷の一風格を示しています。