李承乾碑

 李承乾は、武徳2年(619)、太宗の長男として承乾殿で生まれました。母は文徳皇后です。武徳9年6月4日の玄武門の変により、8月9日に太宗が即位し、10月8日承乾は8歳で皇太子となりました。彼は沈着聡明で賢く、太宗から非常に可愛がられました。
 貞観4年(630)7月、太宗は、人格が高く年長の李網を太子太師(従一品.皇太子に道徳を以て、動静起居・言語視聴に至るまで、補教する最上位の官職)に採用し、承乾の教導にあたらせました。李網は太子承乾のために、君臣父子の道と、父の寝を問い膳を視る法とを述べて太子に聞かせました。その理は道にかない、言葉は正しく、聞く者は、あきることがなかったといいます。
 太子がある時、古来よりの君臣の名分についての教えや、臣が君に忠節を尽くすことにっいて議論しました。李網は顔色をおごそかにして言いました、「幼君を補佐して国政を行うことは、古人は困難であるとしているが、太子がこのように立派な方であるから、自分は易しいと思っている」と。
 李網は、いつも事を論じ言葉を発するごとに、言語顔色ともに意気盛んで動揺させることのできない志が認められました。太子はこれを聞くときは、形を正しくして礼敬しないことはなかったといいます。
 しかし太宗が編纂させた史書によれば、実際には指導できる状態ではなく、承乾は12歳で朝見に顔を出し、太宗の側に控えるようになり彼の野心は明らかになった、とあります。
 宮廷育ちの承乾は天下統一を成した頃の苦難を経験してなく、また庶民生活の苦しみも解らず、加えて皇太子としての尊厳もありませんでした。そして次第に手に負えない皇太子へと染まっていきます。
 これは太宗が真面(マトモ)な教育を承乾に対してずっとおろそかにしていたことも原因しています。貞観5年6月李網が病気で亡くなり、太宗は、左・右庶子(左右春坊を分掌し、侍中・中書令に擬す官職)の于志寧・李百葯に太子の教育を任せました。
 時に承乾は、すこぶる古典を好みました。しかし、暇でくっろいでいる時には、遊び戯れることが非常に甚だしかったといいます。そこで李百葯は賛導の賦という文を作って遠まわしに承乾を諫めました。その文は先聖の格言に始まり、三善(父子の道)・四徳(君子の道)に託(カコ)つけ承乾を褒め、周漢魏晋の太子の善悪、人を任用するについての戒め、刑罰を慎むべき戒め、土木建築工事の戒め、飲酒の戒め、女色にふけるの戒め、さらには狩猟にふけりすさむ害を戒め、自らをいやしいものとして太子の徳を褒めるといった長文でした。
 李百葯は一身を投げ出し、承乾の教育にあたりましたが、如何(イカン)せん、彼の素行は変わりませんでした。2年後、李百葯はストレスが高じ、職を辞してしまいます。


多足硯(『唐の女帝・則天武后とその時代展』より)

 貞観7年、太宗は、面と向かって大胆に諫めるタイプの杜正倫を、于志寧の補佐に任じ、2人に言われた「公等が太子を教導するには、ぜひとも人民の間の利害の事を説くべきである。我は18歳の時までは、まだ民間に居て、人民の苦難はよく熟知していた。帝位につくに及んで、常に人民のことを思いはかって処理した。しかし、時には理にそむき事情にうといこともあり、人の諫めを聞いてはじめて気付き悟ることがある。もし、誠意を尽くして諫める者が説いてくれることがなけれぱ、どうして好いことを行うことができようや。まして太子は奥深い宮殿の中に成長し、人民の苦難を全く見聞きしていないのであるから、なおさらである。その上に人主というものは人民の安危がかかっているものである。だからたやすくおごり高ぶり勝って気ままをなしてはならない。我がもし思うままに勝手なふるまいをしようとすれば、ただ勅を出して「諫める者があれば直ちに死刑にする」と言えば、必ず天下の人々は進んで直言を発する者がないことを知っている。だから私心を打ち払い精神を励まして、諫めを聞き入れているのである。公等はこの趣旨をもって太子に説き聞かせるべきである。もし、太子に不 是の事があるのを見たならば、そのたびに遠慮せずに手厳しく諫めて、太子の役に立つようにすべきである」と。
 これ以後、承乾は朝見にも滅多に出なくなります。
 太宗も対外的には直接注意することは減少しました。しかし聡明で儒学を修めた張玄素を承乾の老師としましたが、何の役にも立ちませんでした。太宗は、賢者や学者を礼遇することを提唱し、文化を以て国を治めることに勤めました。
 しかし承乾は逆に遊びを喜び学ぼうとはせず、でたらめで勝手気ままになっていきます。太宗は反省を促しますが、承乾は一途に拒み、ますます徳を失いました。
 于志寧は『諫苑』20巻を著して太子を諷諫しました。この時、太子右庶子の孔穎達は、太子が嫌な顔をしてもかまわずに諫めを進めました。太子の乳母の遂安夫人はこれを見て孔穎違に告げて言いました「わが太子はすでに成人なされております。どうして、そんなに度々面と向かってその過失を責めてよろしいでしょうか」と。
 孔穎達が答えて言うには、「私は国の深い御恩を受けております。それゆえ、たとえお諫めしたことによって死んでも恨むことはございません」と、諫め争うことが、ますます手厳しくなります。しかし、承乾はますます手が付けられなくなり、太宗の厚望に背き、父子の感情もだんだん疎遠になっていきました。
 貞観10年以後太宗に、新たに別の太子を立てようとする意図が芽生えました。しかし承乾は正当な長子であり、また太宗の心には弟を殺して帝位を奪ったという恐ろしい思い出がありました。したがって貞観17年に至るまで、承乾を皇太子のままで置きましが、その地位がきわどい立場であることは明白でした。
 そこで承乾は自分の皇位継承権を守るため、太子の李泰(3子)を殺そうとしましたが、思うようにはいきませんでした。この時点で別の打算すなわち、愚かにも太宗を脅迫して、別の太子を立てようとする考えを破棄させようとする政変を企て、あわよくばその天子の地位に迫ろうとしました。
 しかし承乾がこの政変を発動する以前の貞観17年2月、斉王李祐(4子)が斉州で謀反します。この謀反はすぐに鎮圧され、調査の結果、その首謀者は承乾一味の紇干承基と判明しました。紇干承基は、承乾の政変の企てを白状します。
 太宗は自ら中心となって調査した結果、確実な証拠を得ます。そして承乾一味は死罪・腰斬(腰を切る酷刑)に処せられ、承乾は廃されて庶人として無位無官となり、黔州(四川省彭水県)へ流されました。
 そして承乾はその地で貞観19年に亡くなりました。承乾は己を厳しく律することができず、でたらめで束縛されず、ために自分の政治的前途を棒に振りました。

仕女狩猟文八曲把杯(『唐の女帝・則天武后とその時代展』より)

 承乾には、李象・李厥の2人の子がいました。その李象の子が李適之です。適之は天宝年間には宰相となり開元26年(738)には、官は幽州大都督府長史・知節度事に至りました。
 この年は、承乾死後95年にあたります。そこで彼は玄宗李隆基に上書して、祖父李承乾を昭陵に帰葬させたいと願い出ました。玄宗は適之に詔書を下し、承乾を常山王に封じ、愍(哀れむ・いたましいの意)と諡しました。そして同年12月、承乾は昭陵に遷葬され、墓前に碑石が立てられました。
 この碑は1974年に発見されました。碑高さ142p、横103pと比較的小さな碑です。上部は残欠し碑文は篆書で書かれています。文字は比較的に大きく、250字ほどの文章です。撰書人は不明です。
 碑文の全文は未だに未発表て゛すが、私のメモ(下図・この釈文は初めてここに発表します。あるいは誤りがあるかもしれません。ご教導願えれば幸甚です)と写真によると、彼の族系のみで、事跡についての記載も廃太子(廃されて庶人として無位無官となったことからこう呼ばれた)の名称も見られません。
 碑文の篆書は、文字の刻された線の回りだけが摩減しています。そのため、拓本とはまるで趣きの異なった書であることは容易に推測できます。