李孟常碑

 李孟常は、趙郡平棘(河北省趙県)の人で、あざなは待寶です。武徳元年に唐に帰し、玄武門の変で活躍した9名の主要将領の1人です。
 唐の統一のため、黄河流域で繰り広げられた戦いに大きな功績をたてました。官は右威衛大将軍に至り、上柱国漢東郡公に封ぜられました。乾封元年(666)74歳で急死し、襄と諡されました。
 この碑は早い時期に失われましたが1974年に出土しました。そのため碑文の保存は完好で、昭陵から出土した碑のなかで破損が最も少ない碑です。35行、行80字。李安期(リアンキ)が撰文し、李玄植(リゲンショク)が書し、萬寳哲(バンホウテツ)が刻しています。
 碑陰には、夫人を合葬したときのことを略述した題記が付け加えられています。そのためかこの碑は、壁に対し直角に展示され、碑陰も見えるようにしてあります。
 李玄植は唐初の儒者で、官は太子文学・弘文館学士を勤めましたが、初唐の書法界では無名でした。
 『旧唐書』巻189上に伝がありますが、書に優れていたという記述はありません。しかしこの《李孟常碑》を書いたときの官位が「侍太子書」であったことから、博学であったと同時に書にも巧みであったことが推察されます。
 同書「賈公彦附李玄植伝」によれば、この碑が書かれたのは乾封元年で、太子李弘が位を廃される以前です。李玄植は東宮にあって太子文学・侍太子書に任ぜられ、かつて御前で沙門道士らと経典の解釈で論争したことがあります。その弁論は美しい言葉を用い、説得力もあったため、「帝は深く彼を礼遇した」とあります。
 李玄植は当時、儒者として名が知られ、書家としての名前はその文名のもとに隠されてしまいました。このような現象は唐代ではしばしば見かけます。
 李玄植の晩年は、同書に「後に、事に座し氾水(ハンスイ)に左遷され、官を卒(オ)えた」とあります。晩年の不遇は、太子弘の死と関係があることは確かです。
 李玄植の書法は、釣り合いの取れた構成で、美しく整っています。同時代の王知敬・趙模・高正臣らの書法と似ており、とくに高正臣と酷似しています。用筆は遵勁で、遂良の影響を強く感じます。
 『陜西金石志』では「つつましく整ったさまは特に傑出している」といい、『関中金石志』では「極めて秀麗である」と述べています。
 この碑を見る限り、あるいは行間・字間のせいか、高正臣より品格が高いように感じます。しかし、高正臣が書した《杜君綽碑》《燕妃碑》と、李玄植が書した《李孟常碑》とは、同じ萬賢哲が刻しています。あるいは刻者による影響かとも考えられます。
 李玄植の残した書法作品はごく僅かで、その意味でも《李孟常碑》は一層貴重なものとなっています。
 碑額は篆書陽刻で、「大唐故右威衛大将軍上柱国漢東郡開国公李府君之碑銘」とあります。