呉黒闥(廣)碑

 呉黒闥、本名は廣、東郡濮陽(河南省濮陽)の人です。早年は瓦崗軍の将領でしたが、唐に帰しました。
 玄武門の変で戦功をあげ、官は洪州都督に至りました。その後貞観末年には上柱国濮陽郡開国公に封ぜられました。
 総章元年10月(668)に78歳で亡くなり、使持節都督・代析朔蔚四州諸軍事・代州都督を贈られ、忠と諡されました。
 碑は総章2年(669)に建てられました。撰書人の姓名は不詳です。この碑は1965年に発見され、1974年、再び出土しました。碑文は33行、行64字からなります。碑身は下から1/3ぐらいのところで2つに割れて、その部分は破損していますが、それ以外の文字はほぼ完好です。しかし、末尾の1行はほとんど摩滅してしまっています。
 《呉黒闥碑》の書法は肉太に特徴があり、そのほとんどは北魏の遺風といわれます。昭陵博物館張崇信氏の『昭陵碑林書法集錦』では復刻かと疑われるような線の太い拓本を掲載して、「昭陵碑林の多くの碑が線の細い、初唐の好みにあった「痩硬(細くて力強い)」な書であるのに対し、この碑は重厚で線が太い」と解説しています。
 しかし、確かに他碑に比べ線が太くは感じますが、碑を見る限りでは《豆盧仁業碑》に近いように見えます。ただ、細い線で繋げた表現は見られず、褚遂良の筆意を強く感じます。あるいは、字画がかなり深く彫ってあるためかとも思われます。書は筆先の利いた引き締まった調子で、北魏の厳しさと、唐の優雅さが渾然としているように感じます。
 《呉黒闥碑》の字には、筆者の非凡な才能がほとばしり、豊満の中に秀麗さが現われ、鈍拙な部分にも円活さが現われています。張崇信氏の指摘の通り、痩硬全盛の初唐にあって、この風格の書はほとんど目にすることができません。
 歐陽脩の『集古録』では、この碑を「字画がすばらしく力強くて好ましい」といっていますが、それは後世の評価で、《呉黒闥碑》はついに時代に合わず、それゆえ初唐にあっては認められることはありませんでした。