程知節碑

 程知節の本名は金(コウキン)といい、あざなは義貞、洛州東阿(山東省阿鎮)の人で、太宗24功臣の1人です。
 少(ワカ)くして驍勇を以て知られ、しばらく李密に、ついで王世充に従っていましたが、武徳3年(620)に秦王府にあって左三統軍を授けられました。
 宋金剛・竇建徳・王世充を破って功績をあげ、宿国公に封ぜられ、康州刺史となりました。
 武徳9年(626)の玄武門の変では、長孫無忌・尉遲敬徳・>房玄齢・杜如晦・高士廉らとともに平定にあたりました。太子右衛率を拝し、ほどなく右武衛大将軍に遷りました。
 貞観11年(637)には功臣の優遇措置として刺史を世襲することとし、盧国公に改めて封ぜられ、貞観17年(643)に長孫無忌ら23人とともに凌煙閣に図像が掲げられる栄誉を得ました。顕慶2年(657)に左屯衛大将軍、荵山道行軍大総管として西トルコの阿史那賀魯の討伐にあたり、斬首3万級の成果を収めました。
 しかし、阿史那賀魯が遠く遁逃するのを許し、追討しなかったため、免官され、ほどなく岐州刺史を授けられましたが、引退しました。
 麟徳2年(665)2月、72歳で亡くなり、驃騎大将軍・益州都督を贈られ、襄と諡されました。
 碑は1963年に再出土しました。36行、行40余字で不等です。立碑年月は不詳ですが、標題に、撰文は許敬宗、筆者は暢整と銘(シル)しています。碑は斜めに上下が割れ落ちています。碑頭はありません。
 筆者の暢整は、《清河長公主李敬碑》も彼の手になることから、やはり当時としてはかなりの書き手であったと思われます。彼は、褚遂良・薛純陀と並ぶ当時の名手とされたといいます。
 もっとも、程知節と李敬(太宗の娘)が義理の親子であり、暢整の書がこの2碑しか残っていない点が気になります。
 この碑の書は、縦横に引かれたマス目の中に刻されていますが、彼の自由奔放な書きぶりは《清河長公主李敬碑》と変わりません。マス目を無視して書かれた書さ振りからして、あるいは、あとから引いたかとも思われます。
 ただ、この碑の方が線の太細の変化が少なく、こじんまりと纒まっているように見えます。あるいは、この碑のほうが若書きなのかと思われます。とはいえ、暢整の気勢豪放な筆勢は、昭陵にあって、他碑と著しく趣を異にしています。
 この碑文は、歐陽棐『集古録目』および陳思『宝刻叢編』に著録されています。また、墓塋の位置は、元代の李好文撰『長安図志』中巻所載の「唐昭陵図」に清河公主墓の左側(西側)に並んで描かれています。ところが、そののちの金石書目には現われなくなります。これは、この碑石が一時埋没し、清朝に至って再び出土したためと思われます。