周護碑

 周護は、あざなを善福といい、河南省汝南の人です。北魏の時、陜西省華県に居を移し、早年期は隋に仕えました。
 大業13年唐に帰し、戦功をあげ上柱国・嘉川郡公に封ぜられ、官は左驍衛大将軍に至李ました。
 顕慶3年(658)75歳で病死し、輔国大将軍・荊州都督を賜り、襄と諡されました。
 碑文は26行、行84字からなります。しかし碑身が中央で分断され,文字の行間には欠けたところがあり、銘の部分もすべて摩滅してしまっています。しかし、現存する2100余字のうち、半数以上の字体は、今新たに彫ったかのように鮮やかに見えます。
 撰文は許敬宗、筆者は王行満です。王行満は生没年不明、詳しい履歴は見付かりません。彼の書した碑文によれば官位はどれもみな「門下録事」とあります。この職は、門下省(天子の侍従職)の下等職で、叙階もわずか正七品上です。
 そのこともあって、当然のこと書名も目立ちません。孫過庭の《書譜》が当時認められなかったのと同様に感じます。同時代および前代の書法の名士を幅広く集めて品評している『述書賦』でも、王行満に言及していません。このことからも、王行満の書の名声は、当時は行き渡っていなかったと思われます。
 しかし、約1000年後の畢沅(ヒツゲン)は『中州金石記』で、「その用筆を観察すると、端正綿密で、字体がことのほか美しく褚遂良におとらない」と評しています。
 確かに、王行満の書は、虞世南からの影響を多く受け、筆圧が重く、それでいて歐陽詢の骨格を用いて方正・整斉、結体は縦長で、字画の緻疎のバランスが絶妙です。これによって、一種の風格を醸し出し、古朴な味わいを感じます。切れ味の鋭さを内に秘め、ゆったりとしています。
 孫遲氏は『書法叢刊』で、「王行満の書法で貴ぶべきところは、かれが普通の道とは異なった道を歩んだことにある。虞世南の書の内含しているところから影響を多く受け、ところどころ歐陽詢の書の「骨格」を用い、字の型は細長くきっちりと整っており、字画は繊細と疎密がちょうどよい具合になっている。これによって、一種の風格を現出している。しかし、ときに意にそぐわない筆致があり、直線で隷書の筆勢を取りながら、なお軽をしのぎ熟につくことができないのは、その欠点である。しかし非常に優れているため、欠点はさほど問題にならない。古今の書法の大家でも、ちいさな瑕瑾(キズ)や書きそこないがないとはいえない。どうして王行満だけにきびしく要求することができようか。このように見てくると、「遂良におとらない」という称賛は決していいすぎでないことがわかる。」と述べています。
 また康有為は、「顔真卿は王行満流派に属する」とも言っています。なるほど顔真卿の若い頃の《多寶塔碑》と酷似しています。
 王行満の書は、端正な中に古朴で力強さが込められ、見る人にゆったりとした落ち着いた印象を与えます。また、綿密な中に明るく朗らかで締まりがあり、和らかさの中に平板に陥らぬ趣を備えています。しかし、横画のうねりは見られず、波磔はむしろ虞世南を思わせます。とはいえ、歐陽・虞・褚とはまったく別の風格を感じるのは事実です。
 王行満の書した碑は王昶の『金石萃編』に記載されている《洛陽聖教序並記》(顕慶2年 本編では《王行満聖教序》)《韓仲良碑》と、この《周護碑》があります。
 この碑は歴代の金石学者の著録に記載されています。しかし北宋時代には、その所在がわからなくなり、1965年の探測を経て、1974年出土しました。
 碑は上下2つに割れてはいましたが、土中に埋没していたため風雨の浸食や人的破壊から免れ、碑文はほぼ完好です。26行、行84字、2000余字のうち半分近くが新刻のように見えます。このことから、書道芸術の珍品であるばかりか、唐の歴史研究の重要資料とも言わ