越王李貞墓誌・蓋

 開元6年(718)に陪葬された太宗の第8子の李貞の墓誌銘です。1972年、陜西省礼泉県興隆村から出土しました。89p×89pに、30行、行32字、全文で882字が八分書で書かれています。
 李貞は両『唐書』に立伝されていますが、歴官や改葬の年代その他については、詩文と異同があり、この墓誌銘により史書の誤りを補訂することができます。
 李貞は、絳州刺史などを歴任し、垂拱2年(686)、武則天を廃立するため兵を起こして敗死し、豫州に葬られましたが、開元6年に至り、昭陵に遷葬されました。この墓誌はその際のものです。
 撰書人は不明です。銘文の八分書は、唐の代表的なもので、楷書の筆意が加わり、装飾性に富んでいます。例えば「鳳」の第1画の起筆・第2画の点折部分、あるいは「八」の第1画などいたるところに見られます。また「孫」や「龍」など、独特の簡略体で書かれています。
 開元・天寳期は玄宗・徐浩・盧蔵用(ロゾウヨウ)・韓択木(カンタクボク)・史惟則(シイソク)・蔡有鄰(サイユウリン)・白義晊(ハクギテツ)・梁昇卿ら八分の名家が輩出しています。あるいはそうした人の手になるように思えます。
 この墓誌の書風は、《礼器碑》に倣って一家を成した梁昇卿の様式に最も近いものですが、一段と婉麗な趣となっています。それだけに筆力に乏しい感があります。
 蓋は篆書で「大唐故太子少保豫州刺史越王墓誌銘」とあります。この篆書も、曲線を主体として、極めて装飾的に書かれています。四周に獅子、唐草紋などが線刻されています。