鄭仁泰墓誌

 鄭仁泰の墓は嵕山より遠く泔(カン)河の近く、昭陵の培冢としては最も南寄りにあります。墓は典型的な唐代大型墓のスタイルです。
 斜坡の墓道に五つの天井、過道を持ち、両側壁に壁画が残っていました。墓室は前後に2室あり、後室の石槨床上に棺槨が置かれていました。
 徹底的な盗掘を受けたために副葬品は乏しく、墓道の小龕(ガン)内に残る駱駝、武官、女官、文官などの各種彩釉陶俑のほか、鍍金の高杯、輪鐙、海獣葡萄鏡などが出土しました。墓誌は後室より、篆蓋(テンガイ)は甬道(ヨウドウ)より出土しています。
 鄭仁泰は、正史に伝が無く、わずかに「高宗本紀」「東夷伝」に鉄勒・高句麗討伐の将軍として、「長孫無忌伝」に即位前の太宗李世民が太子建成や斉王元吉を謀殺した武徳9年(626)の玄武門の変の実行行為者として、名を知られるのみでした。
 この墓誌によって、仁泰の詳しい経歴が明らかとなったわけです。それによれば、仁泰は諱を廣といい、滎(ケイ)陽開封の出身で、その曾祖父の北斉朝における官職から考えて、恐らくは鄭道昭・述祖父子に連なる名族、滎陽鄭氏の一族ではないかと思われます。
 年齢は太宗よりも3歳下で、太宗の父高祖李淵が反隋の行動を起こした当初から、即位前の太宗に既に側近として仕えています。
 武徳年間の秦王(太宗)による劉武周、宋金剛、王世充、竇建徳ら諸群雄の平定作戦にもいずれも従軍して、各地で武人として働いています。
 その没年から逆算すると、玄武門の変の時には弱冠26歳の若さであったことになります。
 仁泰は、変時の功によってか、その年に游撃将軍となり、爵位を受けています。以後も官職、爵位は順調に昇進して永徽4年(653)に銀青光禄太夫・使持節となり、顕慶2年(657)には鉄勒・高句麗討伐の功によって、右武衛大将軍・使持節・涼州刺史に至り、上柱国・開国公に封ぜられました。
 龍朔3年(663)1月19日に63歳で病没し、詔によって葬儀費を支給され、代析朔蔚四州諸軍事・代州刺史を贈られ、襄と諡されました。そして翌年の麟徳元年(664)10月23日に昭陵に陪葬されました。埋葬が死後11カ月後であるのは、墓の築造に時間を要したためと考えられます。
 誌文は楷書で、37行、行37字、全文1270字で、刻線による方格内に収められています。書体は他の昭陵陪冢諸碑に比していささかの遜色もなく、虞書の風格を持っています。撰者、書人の名は知られません。
 墓誌石の各側面には3つずつ計12の開光部があり、おのおの左方向に疾駆する怪獣と山岳文様が描かれています。
 墓誌蓋には篆書で各行4字あての銘があり、「大唐右武衛大将軍使持節」の11字が残っていましたが、残片に断裂し、展示されていません。斜面、側面は唐草文様で埋められているます。