張士貴墓誌・蓋

 張士貴は、あざなは武安、河南省盧氏の人です。本名は忽紇、騎射を善くしました。大業13年(617)、唐に帰し、大功をあげ、官は右領軍大将軍に至り、虢(カク)国公に封ぜられました。顕慶2年(657)、病気のため72歳で亡くなり、輔国大将軍、使持節都督、荊陜岳朗四州諸軍事、荊州都督を贈られ、襄と諡されました。
 翌、顕慶3年に昭陵に陪葬されました。墓誌銘は55行、行57字、合計2911字、楷書で書かれています。撰文は上官儀、筆者は張玄靚(チョウゲンセイ)です。
 張玄セイは、張重華の子で、あざなは元安です。その書は、唐の墓誌銘に良く見られるスタイルで、筆先の利いた落ち着いた書きぶりです。
 蓋には篆書で「大唐故輔国大将軍荊州都督虢国公張公墓誌銘」とあります。