姜簡碑頭

 1964年に、碑頭のみが出土しました。姜簡は、姜行本の子で、官は左領軍衛将軍に至り、郕(セイ)国公に封ぜられました。
 姜行本は、姜謨の子で、本名は確です。兵部尚書の候君集の副将として高昌を平げて功があり、金城郡公に封ぜられました。高麗征伐に従って流矢に当たって卒し、襄と諡されました。
 姜行本の子には、武則天のとき左鷹揚衛将軍を勤めた姜柔遠(遐)もいます。姜柔遠の子の姜(コウ)は、玄宗のとき殿中監を拝し、楚国公に封ぜられ、官は秘書監に至りました。その弟が姜晦で、官は吏部侍郎・海州刺史に至りました。また姜コウの子の姜慶初は、太常卿を拝しましたが、建陵(粛宗の陵墓)のことで代宗の怒りにふれ死を賜りました。

碑頭は≪梁敏碑頭≫と共に台座の上に置かれ、2つ並んで展示されています。