唐倹碑

 唐倹は、并州晋陽(山西省太原)の人で、あざなを茂約(『唐書』列伝では系)といいます。
 若い時、太宗と交わり、隋の政治が乱れるのを見て大計を建てんことを説き、太宗を助け天下を定め、天策府長史となりました。
 貞観初年、突厥に使して還り、民部尚書となり、その後、礼部尚書に遷じ、莒(キョ)国公に封ぜられました。太宗24功臣の1人。
 顕慶元年(656)、78歳で亡くなり開府儀同三司(文散官の最高位。三公に次ぐ位)・并州都督を贈られ、襄と諡されました。
 初めに建てられた碑は火災のため焼失し、その曾孫によって開元20年(732)重立されました。その碑が1974年に出土しましたが、磨滅が甚だしく、行・字数を確かめることはできません。
 撰書人は不明です。ほんの少しですが残っている字は軽円秀勁と評されます。