宇文士及碑

 宇文士及は、宇文述の3男で、兄が宇文化及です。宇文述は、陳を平げて功があり、煬帝のとき、朝政に参与しました。
 兄の宇文化及は、隋の煬帝に従って江都にいましたが、長安で李淵が反乱を起こしたのを機に、煬帝を殺して秦王浩を立て、自ら大丞相となりました。しかし、宇文化及は天子守護役の驍果営(ギョウカエイ)の兵士達に脅され、首謀者に仕立て上げられたものと思われます。宇文化及は、のち、秦王浩も殺して自立し、許帝と称しましたが、唐の武徳の初め、竇建徳に敗れ殺されました。
 宇文士及は、隋の文帝に認められ煬帝の娘・南陽公主を娶り、煬帝に従って江都にいました。煬帝が兄の宇文化及に殺され、嘆き悲しんでいる折り、唐の高祖に召されました。
 その後、王世充の討伐など群雄平定に従軍して功績をあげ、とくに太宗の信任を得て郢国公に封ぜられ、武徳中に中書令を拝しました。
 貞観16年(642)に亡くなり、左衛大将軍・涼州都監を贈られ、昭陵に陪葬されました。碑文にわずかに見える官歴は、ほぼ両『唐書』本伝と合致します。
 立碑年月は不明です。碑はもと昭陵東端にある本人の墓前に立っていましたが、いつの頃からか、碑身が基石からはずれて半ば土中に埋もれてしまいました。
 ここを調査した西本願寺法主の大谷光瑞氏が、初めてこれを掘り出して拓本にとって日本に持ち帰りました。それを内藤湖南氏が考証して、《宇文士及碑》と判定しました。もっとも『目睹書譚』に収められた文章では、《宇文化及碑》に誤っています。
 『鏡如上人年譜』(1954)によると、大谷光瑞氏は、清国視察のため明治39年(1906)9月末に上海に渡り、漢口・鄭州を経て11月ごろ西安に入り、1か月あまり滞在して、善導大師の遺跡を探査していることから、この碑を発掘したのはこの時のようです。
 《宇文士及碑》は、『昭陵碑録』に入っていないものなので、明治43年、内藤湖南氏は北京に旅行した時、その拓本写真を羅振玉に贈りました。羅振玉にとって《宇文士及碑》はまったく未知のもので、考釈(丙寅稿)を加え、『昭陵碑録補』に収録しました。
 また1952年、陜西文物管理委員会は、改めてこの碑を掘り出して拓本を取り直し、李子春が羅氏考釈の誤りを訂正しました。
 碑は剥蝕が甚だしく、現在は碑の上半分は磨滅し、土中に埋もれていた下部1/3の僅か200字余りが残っているにすぎません。
 碑は33行、毎行の字数は不明です。羅氏によれば4行、行4字の額がありますが、界格だけで文字は判別できないといいます。
 撰書人の姓名は不詳です。残文は1960年の第7期『考古』に見られます。その後埋められましたが、1964年再び出土しました。