張阿難碑

 張阿難についての履歴は見付かりません。わずかに残る150字ほどの碑文によれば、張阿難の祖父は名を緒といい、梁の散騎常侍でした。父のことは分りません。
 張阿難は隋から唐に帰順し、将軍として高祖、太宗の二代に仕え、群雄の平定に従軍し、唐朝の創業に働いた宦官です。
 その功によって謁者監、内給事、内侍、正議大夫と累遷し、上柱国に封じられ汶(モン)江県開国侯となり、銀青光禄大夫・左監門将軍・検校内侍を拝しました。
 この碑は確かに昭陵にありましたが、文中に昭陵陪葬の記載がなく、又『長安志』『長安志図』にも彼の墓は記録されていません。
 末尾に「咸亨2年(671)9月20日瑶臺寺僧普□書」とあります。『長安志図』によると、瑶臺寺は昭陵の西、澄心寺の南にあります。
 立碑年月も筆者も不詳です。一説に筆者は瑶臺寺の僧普昌としますが、その行状は全く分かりません。
 碑文は楷書で29行、行52字。他碑に比べ、こじんまりとした感じがします。碑額には陽文篆書で「大唐故将軍張公之碑」とあります。碑は磨滅がはなはだしく、継続した文章では読めません。清初の拓本によった羅振玉の録文でも、657字を判読したにすぎません。
 書法は秀逸で、『集古求真』には「虞世南に酷似する」とあり、銭大マ『潜研堂金石跋』には「書法遒逸、王知敬・褚遂良に似ている」と評しています。しかし現存する碑は、下部の中央部に数文字しか残っておらず判りません。