蘭陵長公主李淑碑

 李淑は太宗の第19娘で、あざなは麗貞です。唐代では、皇帝の姉妹のことを長公主と呼びました。公主とは皇帝の娘をいいます。
 李淑は、7歳にして書を学び、鍾繇・張芝の妙を得たといいます。
 貞観10年(637)に蘭陵郡公主に封ぜられ、永徽元年(650)高宗が帝位につくと、長公主を拝しました。
 李淑は、竇懐哲に下嫁しました。竇懐哲は『蘭陵公主碑残文記』によれば、高祖の皇后(太穆皇后)の孫にあたり、銀青光禄大夫・少府監・上柱国の竇徳素の子です。官は附馬都尉・慶州諸軍事・使持節・慶州刺史に至りました。
 顕慶4年8月、竇懐哲が兗(エン)州都督の時、李淑は32歳で亡くなりました。
 碑は楷書で31行、行70字です。碑額も楷書で「大唐故蘭陵長公主碑」と刻されています。
 立碑年月は不詳で、撰書人の姓名も残損してわかりません。撰者については、李義甫だとする『金石録』の説が一般的です。
 筆者については、夫の竇懐哲だとする説が歐陽脩『集古録』に見られ、葉昌熾『語石』も「竇懐哲の蘭陵長公主碑は、筆法は欧・虞の間に在り。亦た唐碑の至りて佳なる者なり。其の結体綿密にして、気は即ち疏、其の運筆は厳重にして、気は滞らず」とあり、『集古録』に従っていますが、いずれもその理由を明らかにしていません。
 これに対し、趙模の《高士廉碑》と筆致が合うという理由から、趙模の書であるとする孫承沢『庚子銷夏記』の説があり、「方整娟秀、書家の傾国なり」と述べています。
 康有為『広芸舟双揖』にも「王知敬の李衛公碑、郭儼之の陸譲碑、趙模の蘭陵長公主碑、高士廉の塋兆記、崔敦礼碑は、体皆な相近く、清朗爽勁、欧・虞と近き者なり」とあり、趙模の書としています。
 いずれにせよ、結構も整い、勁健であることは、その筆者の力量が凡庸でないことを示しています。品位の高い、厳格な内に伸びやかさを感じる書です。